在日本朝鮮文学芸術家同盟

〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 4〉

日本の学校と朝鮮人長屋(일본학교와 우리 동네)

《朝鮮新報》2020.07.31

コラージュ・沈恵淑

1953年3月に東九条の朝鮮人部落から京都市右京区太秦藤ノ森町の朝鮮人長屋に引っ越した。長屋には8軒の家があったので8軒長屋と呼ばれていた。

私は、1年間通っていたウリ学校が遠いということで、広隆寺が目と鼻の先にある太秦小学校に通うことになった。小学校は長屋から歩いて10分ほどの所だ。

引っ越し後、母と編入手続きをしに行くと、学校側から「小学校1年生の漢字の読み書きができないので、もう一度1年生からやり直した方がいい。元々、今年から学校に入る年だし」と言われ、編入ではなく再入学することになった。なんと小学校1年生で「落第」してしまったのだ。

入学後、朴和男という名前で学校に通うことになった。すぐに友だちもできた。しかし、2年生のクラス替え後から一部のクラスメートによるいじめが始まった。

「僕! 僕! 僕言うてんのになんで返事せえへんのや」。僕と朴のアクセントが違うのですぐに嫌がらせだとわかる。無視すると、かえっていじめがエスカレートするので仕方なく返事すると、「お前のこと呼んでへんわ。自分のことや」とからかわれた。ある時は「チョウセン! お前、ニンニク臭いな。チョウセンに帰れ」と罵倒された。いじめは日増しにひどくなっていったが誰一人助けてくれない。いつしかいじめから逃れることばかり考えるようになっていた。私は、苗字さえ替えればいじめから逃れられると思い、通名の「新井」に替えてくれるよう父にしつこく頼んだ。3年生になって「新井」を名乗ることになったがいじめは続いた。

日本の学校で一番嫌だったのは、社会科で朝鮮が扱われる授業だった。

「朝鮮は、今も火田民による農業が営まれており歴史的にも立ち遅れた後進国だ」とか「朝鮮は、日本の植民地になったおかげで発展した」などと教えられる過程で、いつしか朝鮮人である自分が恥ずかしくなり朝鮮人に生まれたことを恨んだ。

こんな私を朝鮮人として成長させてくれたのは、長屋の人たちだった。

長屋の子どもはみんな仲が良かった。日曜日になるといつも朝早くから夜遅くまで一緒に遊んでいた。

春には野原にヨモギやタンポポ、ツクシを取りにいった。夏になると川や池でカエルやスルメを餌にしてザリガニを釣ったり、小川や池の水をかい掘りしてフナやドジョウを獲り、母や長屋のアジメたちに料理してもらった。朝早く網を持ってカブトムシやクワガタもよく捕りに行った。暑くなると嵐山や桂川に泳ぎに行ったし、家の近くの神社の大木に縄でハンモックを作って昼寝をした。秋になるとハチに刺されながら採ってきた蜂の子を母に「볶아して(ポッカして・炒めて)」と言うと、醤油で炒めてくれた。ときには生で食べたこともある。ドングリを拾ってくるとアジメたちが도토리묵(トトリムック・ドングリムック)を作ってくれたし、バッタを取ってくるとおいしい佃煮を作ってくれた。

一歩外に出れば、そこには私たち子どもの好奇心を満たしてくれる自然の遊び場が限りなく広がっていた。その楽しい世界が、私たちの夢と創造力を育み、たくましい朝鮮の子に育ててくれた。

長屋の할배(ハルベ・おじいさん)、한매(ハンメ・おばあさん)、아지매(アジメ・おばさん)、아재(アジェ・おじさん)たちも長屋の子どもたちを優しく見守ってくれた。

私が太秦に引っ越して間もなくのことだ。お腹を壊して大泣きしていると、それを見た隣の文さんのハンメが「ここに寝てお腹を見せてみ」と言うと、優しく揉み始めた。しばらくするとお腹の痛みが嘘のようになくなっていた。その後も、お腹が痛くなるたびにハンメのところに行って治してもらった。ハンメの手は魔法の手だった。

毎年、秋が深まるとアジメたちが長屋にある井戸の周りに集まって김치(キムチ)を漬けた。晩秋の風物詩の김장(キムジャン・キムチを漬けこむ行事)が長屋にはあった。それを眺めているとアジメたちが「みんなこっちにおいで。漬けたてのチムチ(キムチの慶尚道方言)やで。食べてみ。おいしいで」と言って私たちの口に入れてくれた。辛さでひいひいしながら食べたキムチの味が今も忘れられない。

当時、長屋には豚を飼っていた北村さんのハルベの家にだけテレビがあった。毎週一回、プロレス中継のある日にはテレビの前は長屋の人たちでいっぱいになる。力道山を応援するためだ。この日ばかりは大人も子どももない。ハルベやハンメ、アジェ、アジメたちが「ヨットサン(力道山)、負けるな、空手チョップや!」と大声で叫ぶと、私たちも大人に負けまいと「ヨットサン、空手チョップや!」と大声で叫んだものだ。

朝鮮語と日本語が飛び交うバイリンガル環境の長屋での生活は、私たちに自分が朝鮮人であることを自然と自覚させてくれた大切な場所であった。長屋の生活は、私に民族差別に打ち勝つ精神力と朝鮮人としての心を培ってくれた。朝鮮人だという同族意識、連帯感がいつしか心の支えになって長屋の子どもたちを強く鍛えてくれたのだ。

長屋には、日本社会に根強く残る朝鮮人差別やどんな苦境にも負けることなく、たくましく生きていく朝鮮人の安らぎの生活空間が存在していた。

우리(我々、私たち)の語源

우리という言葉には、朝鮮民族の精神世界やものの捉え方・考え方が深く反映されています。ウリ民族は、衣食住をはじめ社会生活の隅々まで個人を集団の中に帰属させることで、自分の精神的安定を図ろうとする民族特有の連帯意識を持っています。平たく言えば、同じ構成員としての仲間意識がとても強いということです。우리 학교(我が校)、우리 집(我が家)、우리 어머니(私の母)、우리 나라(我が国)などの우리の中に、孤独とは無縁の温かさと安らぎを覚えるウリ民族の心を見て取ることができます。

우리の語源は울(囲い)です。울は元来「ものの回りを囲った部分、範囲、周囲」という意味を持った言葉でしたが、のちに「人々」という複数を表す言葉になりました。우리、울が含まれた言葉には하늘(空)、울타리(垣根、囲い)、돼지우리(豚小屋)、닭우리(ニワトリ小屋)などがあります。하늘は、한(大きい、広い)+우리(囲い)→한울→하눌→하늘と変化した言葉です。空の特徴を、見た目通り「大きく囲まれたもの」と捉えて한+우리→하늘と命名したのですね。

(朴点水・朝鮮語研究者)

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