在日本朝鮮文学芸術家同盟

ウリマルを考える⑥ウリマルと李克魯/朴宰秀

《朝鮮新報》2022.11.09

ウリマルを考える⑥ウリマルと李克魯/朴宰秀

李克魯は、映画「マルモイ(言葉集め)」の主人公・朝鮮語学会代表のモデルになった人物で、共和国の著名な朝鮮語学者、反日愛国烈士、社会活動家です。

朝鮮語学会は、1931年1月に朝鮮の言葉と文字の研究と整理および統一を目的に設立された民間学術団体で、周時経の志を引き継いだ弟子たちを中心に結成された団体です。李克魯は周時経の弟子ではありませんが、この朝鮮語学会で中心的な役割を果たしただけでなく、生涯ハングル運動を主導した朝鮮語学者です。

李克魯はウリマルとともに波乱万丈な人生を歩みました。そのことは彼の経歴を見ればよく分かります。今回は、李克魯の人物像を通してウリマルを考えてみたいと思います。

李克魯の波乱に満ちた人生

李克魯は、1893年に慶尚南道宜寧郡の農家で生まれました。幼い頃、家の農作業を手伝いながら村の書堂で学んだ彼は、1912年満州に渡り大宗教が設立した学校で教鞭をとります。

李克魯は、1921∼1927年にベルリン大学で学び博士号を取得しました。彼は、その間に大学とドイツ政府に要請して朝鮮語科を開設し、1923年10月から3年間朝鮮語を教えます。

李克魯は、ヨーロッパで生活しながら植民地国家が強大国により言葉と文化を失っていく状況を見て、母国語を守ることが独立の第一歩だと考え、祖国に帰れば朝鮮語を守る運動に一生を捧げる決心をします。

1927年、帰国する途中、ヨーロッパや米国を回りながら同胞に母国語の重要性を説き、母国語の使用を通じて民族性を維持することを主張しました。

1929年1月に帰国した李克魯は、ウリマルと文字を守る独立運動を展開します。

1929年4月から朝鮮語研究会に参加した 李克魯は、同年10月に朝鮮語辞典編纂会を組織し委員長となります。そして、1931年、ウリマルと文字を整理し統一しようと朝鮮語学会を発足させます。彼は、朝鮮語学会で幹事長(1930~1931、1937~1942、1945年)、常任幹事(1932~1936、1946年)を務め、解放後まで会を率いました。

李克魯は、同僚の学者たちとともに朝鮮語の3大規範集である『ハングル正書法統一案』(1933)、『査定した朝鮮語標準語集』(1936)、『外来語表記法統一案』(1941)の制定などを主導し、『朝鮮語大辞典』を発行するのに核心的な役割を果たします。

李克魯は、ハングル運動を中心にした民族運動を展開するさなか、祖国光復会の活動家・崔炯宇(別名チェ·イルチョン)を通じて抗日武装闘争や祖国光復会の創設、普天堡戦闘など多くのことを知ります。彼は李允宰、韓澄らとともにソウル朝鮮語学会事務室で祖国光復会支部を結成し、祖国光復会会員として活動します。

崔炯宇はこの時、抗日武装闘争の資料の保管を李克魯に頼みます。李克魯は危険を冒してこの資料を保管し解放後彼に返しました。崔炯宇はこの資料を基に『海外朝鮮革命運動小史』を著し、金日成将軍の抗日武装闘争を初めて世に知らせました。

李克魯は、1942年7月、朝鮮語学会事件で朝鮮語学会関係者33人とともに日本の警察に逮捕されます。彼は、咸興警察署に収監された後ひどい拷問を受けました。この事件で懲役6年を求刑された李克魯は、咸興刑務所に服役しますが解放直後に釈放されます。

解放後、李克魯は朝鮮語学会を再建し朝鮮語辞典の出版に取り組みます。辞典の原稿は解放直後、京城駅の朝鮮通運倉庫で発見されました。裁判資料で移送された原稿が倉庫に放置されていたのです。李克魯は、これを再び整理して『朝鮮語大辞典』の発刊を主導する一方、ハングル専用運動、国語教科書の編纂、国語講習会などを通して国語教育を確立しようと努力します。

李克魯は1948年4月、南北連席会議に参加するため平壌に行き、そこに残ります。

李克魯は、1948~1955年12月まで言語学研究所の前身である朝鮮語文研究会委員長、朝鮮語および朝鮮文学研究所所長として活動します。

彼はまた、朝鮮民主主義人民共和国第1次内閣の無任所相(1948年9月~1953年12月)、最高人民会議常任委員会副委員長(1953年~1962年)、祖国平和統一委員会副委員長(1961年~)、委員長(1970年~)、祖国統一民主主義戦線中央委員会常任委員(1949年~)として活動します。

李克魯は、日帝時代から始まり、長い間の朝鮮語研究活動を通じて朝鮮語の発展と科学的解明に大きな貢献をしました。このような功労で科学院および社会科学院の院士(1973)・博士号(1970)を受賞し、『祖国統一賞』と国旗勲章第1級を始め多くの勲章を授与されました。

辞典編纂および朝鮮語研究で中核的な役割を果たした李克魯は、1978年に85歳で波乱万丈の生涯を終えました。遺骸は平壌の愛国烈士陵に安置されています。

李克魯の信念

李克魯の人生は大変厳しいものでした。

植民地になった朝鮮社会に李克魯が貢献しようとした核心的な事業は、朝鮮語文の規範と朝鮮語辞典を作り、朝鮮民族と民族性を守る母国語固守運動を完遂することでした。このため、李克魯は宝城専門学校の校長職(今の高麗大学総長)の提案を断っています。当時、専門学校の校長職は名誉と経済的報酬を同時に得られる職責でしたが、これを断ったことを見れば、彼がいかに母国語固守運動を重視したかをうかがい知ることができます。それだけではありません。李克魯は、母国語固守運動を推進するために国が独立するまではお金を稼がないと決心し、他の職業には就きませんでした。

1929年、朝鮮語辞典編纂会が発足した時のことです。当時、辞典編纂会の財政はあまりにも劣悪で、辞典編纂委員や職員の最小限の生活費さえ支給できませんでした。

李克魯が財政難を打開しようとどれほど苦心したか、その一端を彼の自叙伝(1978)で見ることができます。

彼は、お金を工面するため、独立運動家の李東輝が記念にくれた大切な望遠鏡と写真機を質屋に入れて飢饉を免れたことや、結婚当時、兄たちが妻にくれた金の指輪、かんざし、金の耳掻きを売って助けてほしいと妻に頼んだこと、妻が躊躇なくこれを売って作ってくれた250ウォンを飢えている辞典編纂委員たちに配って危機を免れたことなどが記されています。

「民族があるなら言葉があります。言葉があるなら、必ず文字がなければなりません。言葉は民族の精神です。文字は民族の生命です。精神と生命があれば、その民族は永遠に不滅であり、幸福は必然的でしょう」。これは「ハングル頒布500周年記念日を迎えて」(1946.10.9)に際して「学生新聞」13号に記した李克魯の言葉です。

李克魯にとって言語は民族の精神であり、生命でした。言語を維持すれば民族は維持され、自主独立国家を建設することができるという彼の強い信念が、今日の朝鮮語に生きている気がします。

【プロフィール】1970年、朝鮮大学校文学部卒業。同校で48年間勤務。文学部及び文学歴史学部学部長、朝鮮語研究所所長を務める。東京外国語大学、関東学院大学、京都造形芸術大学で非常勤講師を歴任。現ハングル能力検定協会相談役。朝鮮民主主義人民共和国教授、言語学博士。

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