〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 10〉

朝鮮大学校創立10周年と思い出の歌(조선대학교창립 10돐과 추억의 노래)

《朝鮮新報》2021.02.27

コラージュ・沈恵淑

朝鮮大学校に入学して数日後のことだった。先輩が私たち新入生を教室に集めると、何の説明もないまま1枚の紙を配り始めた。そして、「演奏できる楽器があれば楽器名を書きなさい。なければ名前だけ書いて出しなさい」と言った。私は何も演奏できなかったので名前だけ書いて出した。

翌日、無記入者全員が大教室に集められた。そこで、私たちが朝鮮大学校創立10周年記念公演の合唱を担当することが告げられた。パート分けで私はセカンドテナーのパートに入った。その日から毎日放課後に2~3時間、歌の練習をすることになった。

練習は、歌詞にある単語の意味や内容の把握から始まる。その後、発音練習をして、ようやく「マイマイマイマイマイマイマイマイマー」と発声練習に移る。それから歌の練習に入るのだが、その途中、発音が悪かったり歌声が合わないとすぐに練習が中断される。そして再度歌詞の意味を確認して発音の練習をするという具合だ。

この練習で今も印象深く残っている歌が「청산벌에 풍년이 왔네(チョンサンポレ プンニョニ ワンネ・青山里に豊年が来た)」と「노호하라 남해바다여(ノホハラ ナメパダヨ・怒れ南海の海よ)」だ。

청산벌에 풍년이 왔네の歌に고간에 쌓고 남아 헛간에 쌓지 알뜰히 찧어서 기차에 싣지(コッカネ サッコ ナマ ホッカネ サッチ アルトゥリ チオソ キチャエ シッチ・倉庫に積んで余れば納屋に積むさ。みなみなついて汽車に載せるさ)という歌詞があるが、私を含めてほとんどの学生が고간と헛간、알뜰히 찧어서の意味を聞かれても答えられない。そのうえ、쌓지を[사찌]、찧어서を[지어서]と発音したのでそのたびに、「歌は聞く人に意味が通じてこそ心に響くものだ。そのためには歌詞の内容をしっかり把握して意味が伝わるように正確に発音しないといけない。[사찌] [지어서]と発音すると「買った」「作って」という意味になって歌詞の内容が通じなくなる」と先生や先輩に厳しく注意された。そして[사치]と[찌어서]の発音ができるまで何回も練習する。万事こんな感じの指導と練習が毎日繰り返された。こんな歌の指導法は、その後の3回に渡る大音楽舞踊叙事詩でも変わりなかった。歌の練習時間がまるでウリマルの学習時間に思えた。

同年の12月、中等教育実施20周年を記念する大音楽舞踊叙事詩「조국의 해빛아래(チョグゲ ヘッピダレ・祖国の陽光のもとに)」(東京体育館、1966年12月13~14日)が出演者3千人によって上演されることになった。私たち朝大生は、朝鮮大学校創立10周年記念公演で培った経験を生かして、この公演の中核を担うことになった。

翌年の3月には祖国からの教育援助희と奨学金10周年を記念する大音楽舞踊叙事詩「조국과 수령께 드리는 노래(チョグックァ スリョンケ トゥリニン ノレ・祖国と領袖に捧げる歌)」(大阪国際市場常設会館、1967年3月11~15日)が大阪で上演された。

この公演の練習に励んでいた2月初旬のことである。創部間もない合唱部の学生が韓徳銖議長(学長を兼任)に呼ばれた。合唱部の一員だった私も同席した。その場で韓徳銖議長は私たちに「大学が創立されて10年になるが卒業式で歌う歌がない。そこで私が歌詞を作ってみた。それを二人の先生が作曲したのだが、この2曲を朝大生に聞かせてどちらが良いか意見を聞きたい。朝大生が受け入れてこそ朝鮮大学の卒業式で歌う歌としてふさわしいと思う。朝大生が選んだ曲を卒業式の歌にするつもりだ」と言われた。そして、歌詞の解説をしてくださった。

数日後、私たちはこの2曲を朝大生に披露して選曲してもらった。結果は崔東玉先生の曲が圧倒的な支持を得た。もう一つの曲も民謡調で明るく軽快な曲で良かったが、卒業式で歌う曲としては合わないと感じたようだ。この歌が毎年、朝大の卒業式で歌われる「목련꽃 필 때(モンニョンコッ ピル テ・木蓮の花が咲く頃)」である。

韓徳銖作詞、崔東玉作曲のこの歌(創作日1967年2月18日)が卒業式で初めて歌われたのは、9期生が卒業する朝鮮大学校第10回卒業式(1967年3月23日)であった。

1968年6月にも朝鮮民主主義人民共和国創建20周年を祝う大音楽舞踊叙事詩「위대한 수령께 영광을 드린다(ウィデハン スリョンケ ヨングァンウル トゥリンダ・偉大な領袖に栄光を捧げる)」(1968年6月1~5日)が東京体育館で上演された。

3回の公演は、人々に大きな感動を与え民族教育のすばらしさを内外に知らしめた。朝大認可の運動に大きく寄与したこれらの意義深い公演に毎回出演できたことを私は幸せに思う。

音楽は、人々に明日への希望と活力を与えてくれる人間生活に深く溶け込んだ芸術である。

歌には、大阪の「火曜日行動」で歌う「勝利のその日まで」のような同胞を鼓舞する歌もあれば、金剛山歌劇団や歌舞団が歌う同胞に夢や希望、喜びを与える歌もある。歌には人の心を動かす魔法のような力があるのだ。

同胞社会に根づいている歌には、祖国で創作された歌もあれば、朝鮮大学校や祖国で学んだ作詞家や作曲家によって創作されたものもある。それらの歌が、同胞の心と心をつなぐ架け橋になっている。同胞が生活するところにはウリ音楽家が奏でる同胞の音楽があり、同胞の音楽があるところには民族性豊かな同胞の生活がある。

大学時代に音楽を通じてことばの大切さを学ぶ機会を得たことは、私にとって貴重な体験だった。

노래の語源

노래とは歌詞に曲を付けて歌うことです。朝鮮民族は、昔から노래と茶をこよなく愛し、日常的に楽しんできました。

노래の古語は「遊び事、遊ぶこと」という意味を表す「놀애」です。1459年に刊行された仏教書「月印釋譜 (월인석보)」に「건달바의 아들이 놀애를 불러(乾闥婆[けんだつば・仏教の音楽の神]の息子が歌を歌い)」という文が出てきます。놀애の놀は놀다(遊ぶ)の語幹で、애は動詞を名詞化する接尾辞です。

本来노래は「遊び事、遊ぶこと」という意味だったものが、のちに「歌うこと、歌」という意味に変化しました。1527年に刊行された「訓蒙字会(훈몽자회[1527年に崔世珍が著した朝鮮の漢字学習書])には「歌」を「놀애 가」、「曲」を「놀애 곡」、「戯」を「놀애 희」と記しています。このように、昔は「遊ぶこと」を노래と言っていましたが、現在では「歌うこと、歌」という意味だけを表す言葉になりました。

(朴点水・朝鮮語研究者)

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