〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 18〉

国語教員学習会を組織する(국어교원학습회를 조직하다)

《朝鮮新報》2021.11.28

 40年ほど前のことである。当時、1983年からの教科書改編と3世・4世への世代交代が進む学生たちの実情に合わせて、国語教育の質の向上、特に話す能力向上のための口語教育の強化が強く求められていた。

私は1983年8月末に朝鮮大学校で開かれた第10回教育方法研究大会に参加して、国語教育の質の向上について深く考えるようになった。

1984年に入り、民主主義民族教育事業を改善強化する教育方針が示され、教員の資質向上と教員養成の対策が立てられた。この対策により、この年に国語教員の初めての祖国講習が実現し、翌年には朝鮮大学校師範教育学部に3年制教育学科が設置された。

1986年1月末に開かれた第11回総聯各級学校教員の教育研究大会(この時から教育方法大会の名称が教育研究大会に変更される)から中高国語分科の講師(現・助言者)として参加することになった。大会での講師の役割は、教研に提出された研究論文の審査と論文に関する講評、研究方向についての私見を述べることであった。

提出された研究論文を講師として初めて審査した時のことだ。提出された論文の水準の差が気になった。その差はその後もあまり改善されなかった。そのため経験豊かで研究熱心な教員がいつも教研で発表した。他の教員は発表を聞くだけで質問すらできない。いつも重苦しい沈黙だけが会場を支配した。経験の乏しい若い教員にこのような傾向が目立った。若い教員たちの実力不足が問題だった。

1988年1月末に大阪で開かれた第12回の教育研究大会に参加して、国語教育の質を高めるには、まず国語教員の資質向上だという思いを一層強くした。

私は東京に戻ると、2月から国語教員学習会を立ち上げることにした。

国語教員学習会は月1回、東京中高で開いた。第1回は、学習会の趣旨と教研の現状、国語教員に必要な資質について私が講義した。

3月の学習会は、高3の「花売る乙女」と「沈清伝」を題材にした柳秀玉先生(東京中高)の放送劇と紙芝居作り、梁君英先生(東京朝鮮第4初中)の「5年間の文型教育の経験」が発表された。

学習会には、関東地方の中高の教員が参加した。多いときは30名近く集まった。

1990年に私は、教科書編纂委員会の国語分科の分科長を任された。翌年から教科書編纂事業が本格化すると、年に2~3回祖国を訪問するようになった。そんなこともあって、1991年に学習会を一時中断した。

1993年から全面的に改編された教科書が順次出版されると、各地の学校で教材研究が活発に行われた。

1996年に入り、中2の번견탈출기ポンギョンタルチュルギ(番犬脱出記) の教材研究を柳秀玉先生と一緒に始めた。現場での授業を参観したり、教案を検討する機会も増えた。

そんな中で、번견탈출기ポンギョンタルチュルギに出てくる저승사자チョスンサジャ「あの世の使者/死神」を「あの世のライオン」と理解する教員がいたことに驚いた。

教員が、言語表現や教材の内容を正確に理解しないで授業するということは、許されないことである。

現場の教員から学習会の再会を望む声も強まっていた。これを機に、中断していた国語教員学習会を再開することにした。

学習会は、祖国での国語教員講習会の講義内容も取り入れながら教材研究と教案作りに焦点をあてて進めた。

自主的な学習会にも関わらず、東京を始め神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木、長野、群馬などから多くの教員が参加した。遠い所は、学校のバスや車に乗ってやって来た。新潟から自費で新幹線に乗って参加する教員もいた。

学習会は、2000年まで続けられた。この年から2003年度版の教科書編纂事業が始まった。

学習会は、朝大文学部の国語教授法をはじめとする国語教育の改善の手掛かりを得る場にもなった。

2003年度から新たに改編された教科書が出版されると、教育内容に対する各学校の指導が一層強化された。学区別教育研究活動の活性化で、教育の質の向上が以前にも増して図られるようになった。

教員の授業研究が深まり実力が向上するにつれ、若い教員からも質の高い論文が提出されるようになった。

学区別教研集会や教研大会、祖国や日本での国語教員講習で教員の学習意欲が高まったことは喜ばしいことだ。しかし、まだまだ課題が山積みされている。

私は今も中高国語分科の助言者を務めている。最高齢の助言者である。次世代の助言者を育てられなかった結果だと深く反省している。

最近になって若い助言者が育っており一安心だ。次世代につなぐ日が近づいていることを嬉しく思う。

世界的なコロナ感染により、教育現場だけでなく教研や教員の学習会が厳しい状況に置かれている。それでもオンラインなどで授業や教研、講習会が行われている。

少数で頑張っている各地の教員をつなぐ手段として、オンラインを利用した教員間の大小の学習会などは授業研究や資質向上に役立つと思う。

「人こそ人の鏡」と言う。教育現場で聞けた教員の生の声は、我が身を映す鏡であり学びの場であった。

(朴点水 朝鮮語研究者)

서울の語源

国の都・首都を서울と言います。この言葉は、소부리→서부리→서불→서울という変遷過程を経てできました。「三国遺史」(13世紀末)によると、부여や백제では首都のことを소부 리(所夫里)と言い、신라では서벌と言っていましたが、その他にも서라벌(徐羅伐)、사 라/사로とも言っていました。사라/사로は서라벌/서라버리から벌/버리が脱落した形です。사라/사로/서라は「東側」を意味する古語で、現代語の새바람(東風)や새벽(明け方)の새と語源が同じものです。また벌/버리は「広い土地、平原地帯」を意味する言葉でした。日本語の「原」の語源でもあります。서라벌の縮約形の사라/사로/서라は「東側の広い土地、東側の平原地帯」を意味した言葉でした。この言葉が後に신라になりました。このように서울という言葉は、元は「東側の平原地帯」を意味していたのですが、後に「首都」という意味で使われるようになりました。

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