在日本朝鮮文学芸術家同盟

東京新聞「100年の残響 昭和のうた物語 イムジン河」2024.5.12

フォークル「イムジン河」 朝鮮半島の架け橋願った幻の曲 望郷の思いに人々は涙した 昭和43年

「東京新聞」2024年5月12日

<100年の残響 昭和のうた物語>(3)から

「イムジン河 水清く とうとうと流る 水鳥自由に むらがり飛びかうよ」

「イムジン河」の詞を手がけた松山猛さん

 「イムジン河」の出だしだ。北朝鮮で生まれた原曲「臨津江(リムジンガン)」から、この1番を訳し、2、3番を創作したのは作詞家松山猛さん。詞は、こう続く。「北の大地から 南の空へ 飛びゆく鳥よ 自由の使者よ…」「イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ 河よ 想(おも)いを伝えておくれ…」

 軍事境界線を越え、朝鮮半島をほぼ南北に流れる臨津江と鳥に思いをはせ、分断された国の架け橋となってほしいと願う詞だ。

 「夕暮れとなり鳥たちが飛び立ったんです。あっ、歌の情景が現れたと思いシャッターを切りました」。松山さんが、この写真を撮影したのは1999年。当時、「イムジン河」はまだ「幻の曲」だった。68年にザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)によってレコーディングされたものの、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)のクレームから発売中止となっていた。この曲もまた、分断と架け橋の間で揺れ動いてきた。

 その歴史は、松山さんが京都市内の中学3年生だったときに始まる。在日朝鮮人の生徒とけんかが絶えず、松山さんは朝鮮中高級学校にサッカーの試合を申し込みに行く。けんかよりいいと思ったからだ。その時、学校の廊下で耳にしたのが「イムジン河」だった。

 美しくももの悲しいメロディーに感じ入った松山さんは、後に知り合った朝鮮中学の生徒「文(ムン)くん」から曲名を教えられ、歌詞を書いたメモと朝鮮語小辞典を手渡された。「松山くんもこれで歌詞、訳せるやろ」

 レコードとして売り出す話は、松山さんが作詞したフォークルの「帰って来たヨッパライ」が大ヒットした後、持ち上がった。フォークルのリーダー加藤和彦さんに次の曲として「イムジン河」を推す。受け入れられたものの、1番しか訳していない。そこで書き加えたのが2、3番の詞だ。

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2001年、平壌で「イムジン河」の作曲者・高宗煥さん(左)と面会した李喆雨さん(李さん提供)

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