【寄稿】冬の日のある夕べの音楽会―盧相鉉ピアノ演奏会に招かれて―

《朝鮮新報》 2019.02.22

ピアノを演奏する盧相鉉さん(撮影=全賢哲さん)

先日(1月23日)の夕方、東京・立川で「第23回朝鮮大学校教育学部音楽科在学生・卒業生合同音楽会」という催しがあり、寒い中を、招待状を手に出かけた。

プログラムによれば、パートⅡが「盧相鉉ピアノ演奏会」と銘打たれている。在日朝鮮人ピアニストとして知る人ぞ知る彼の演奏をこのようにじかに聴くのは久方ぶりで、この日はとても感慨深いものがあった。

私は他の芸術ジャンル同様、音楽も好きで、クラシックを聴かない日とて1日もないそんな人生をおくってきた人間だが(まさしく生活の中に音楽があり、音楽の中に生活がある)、楽器についてはまったくの門外漢である。ただ素直に耳で受け取り、心で聴いて、自分なりに思いのたけ鑑賞して満足する趣味人のひとりに過ぎない。そんな私が件の音楽会で新たな感想を抱いたことがいくつかある。それを書く。

◇ ◇ ◇

出し物を見る上では、音楽家・盧相鉉の半世紀にわたる活動の集大成とも言うべき構成であったが、鑑賞中私は、ピアノと彼との関係ということをずっと考えていた。

グランドピアノの前の椅子に着くときのしぐさ、ピアノと椅子の間隔の取り方、そして第1音を叩く瞬間の鍵盤との呼吸と間合いの取り方など、一つひとつ観察するうち強く感じたのは、もはや演奏者がほぼ楽器と一体化しているという感覚、そして楽器に馴染み尽くした一個の芸術家の人間存在が眼前に厳としてあるという実際感覚だった。

ピアノが独奏者の肉体をそのまま写し取っているかに思えたことがいくたびか。あ、ピアノが躍っている…。

圧巻は、2曲目の「ピアノのための散調」だ。実に熱のこもった、なにやら、この世のすべてを物語ろうとでもするかのような演奏振りに魅惑された。

朝大音楽科の在学生および卒業生らも舞台に立った

散調というのはもともと、カヤグム(伽倻琴)とかコムンゴ(玄琴)などをチャング(太鼓)の伴奏で独奏する朝鮮南部地方の曲のことであるが、これが実に奥深いのである。盧相鉉自身による編曲で、若い頃のエチュードである。エチュードとはフランス語で習作の意味。若さというのがいかに底知れぬ力を生み出すかを改めて思い知らされた。

この独奏にはまた、朝鮮民族の伝統芸術の基盤から発する強烈なシンミョン(神明)のスパイスがたっぷり効いていた。そぞろわき立つ興のことだ。朝鮮民族なら誰もが身に覚えのある調べ、伝統的な歌舞の世界。

◇ ◇ ◇

私の知る盧相鉉は一風変わった雰囲気を持つ人で、日ごろあまりしゃべらない。どちらかと言えば寡黙なほうだが、いざ音楽となると、なんと饒舌で雄弁なことか。聴く者の心に、目や口以上によく伝わる。言葉でなく音でしゃべる人。

「一番大切なものは目では見えない。心で見るのだ」と言ったのは、『星の王子さま』の作者だったっけ。

いずれにせよ、異国の地でかくも永きに亘り咲き続ける美しい花。民族音楽の力強さと優雅さの調和の見事さは、それに接する者の心を捉えて放さない。

かつてこんなことがあった。ソウルからわが朝鮮大学校を訪問した同胞らの叫び―「民族の真の姿をここ日本の小平市で確認できた。ソウルではほとんど目にすることのない女学生たちのチマ・チョゴリ姿、どこかから聞こえてくる民族音楽と民謡、学園に響き渡る民族の言葉、ウリマル!」彼らは朝鮮大学校から「民族」を学んで帰っていった。

私は演奏会場で、なぜか、そんなことを思い出していた。

忘れてならないのはパートⅠの、音楽科の在校生および卒業生らによる公演である。人数こそ多くないけれど、一生懸命歌い演奏するその姿は、まさに現在の朝鮮大学校を根っこから支えて余りあるとの印象を強く受けた。

とても快い文化のひと時を、ありがとう。

(高演義、朝鮮大学校客員教授)

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