〈投稿〉金炳華先生の訃報に接して

《朝鮮新報》2021.04.16

朝鮮民主主義人民共和国国立交響楽団・主席指揮者、金日成賞桂冠人・人民芸術家である金炳華先生の訃報を知った。

先生は、神戸朝鮮高校第一期卒業生で音楽家になる夢を祖国の懐で見事に開花させ、国立交響楽団の首席指揮者になられた方である。

祖国の報道によると、先生は指揮者人生の全過程で共和国の管弦楽作品の完成と普及に多大な貢献をしてこられた。有名な管弦楽「青山里に春が来た」や管弦楽「アリラン」の名演奏、それに世界的に有名な尹伊桑先生のむずかしい現代曲の初演と録音でその名は広く外国にまで響いている。

一九九二年、先生は兵庫同胞音楽祭と東京でのコンサートのため国立交響楽団と共に日本へ来られたこともあった。また、ポーランドのワルシャワで催された国際現代音楽祭へも参加されている。

ニューヨーク・フィルがピョンヤンを訪れた時も、日本の著名な指揮者が訪朝した時も共和国の代表として堂々と対応されていらしたのは記憶に新しい。

日本の報道などでは共和国へ帰国された在日同胞はみんな苦労ばかりしているとされているが、がんばって自分の夢を実現し、また大成された方も沢山いるのだ。

音楽分野だけの私の狭い把握ではあるが、作曲家として、またオーケストラ、合唱団、舞踊団と三百名以上いる総合芸術団の団長として活躍された康清先輩も、在日同胞をテーマにした映画「ウンビニョ」(銀のかんざし)の音楽を担当された徐先輩も、ピアニストになった趙先輩もみな私と同じ母校、東京朝鮮中・高級学校出身である。その他、演奏家や音楽大学の教授など名を上げれば沢山いる。みんな日本で咲かせられなかった夢を祖国で咲かせたのだ。

金炳華先生はそんな帰国同胞の象徴であった。

私個人の話になるが、金炳華先生には二つの深い思い出がある。

一つは私の未熟な曲を指揮し演奏、録音してくださった事だ。実は二十代の後半、教師をしながら作曲の勉強をしていた私であったが、現実のいそがしさに流され、何度も壁にぶち当たり断念直前の状態であった。そんな時の祖国での音楽専門講習は私に再生の生命水を与えてくれた。またその時完成させた交響詩「リムジン江」を金炳華先生の指揮で録音された感激は祖国の懐で一生音楽家として生きて行く私の心の源になった。

それから数十年後、こんどは交響組曲「所願」と、その後少し修正した交響詩「リムジン江」をまた国立交響楽団に録音していただくことになったが、その時も金炳華先生が指揮してくださった。

金炳華先生とのエピソードはもう一つある。

生前私に色々アドバイスを下さった日本の作曲家、故林光先生との関係である。

私は個人的にも(作曲家として)、文芸同音楽部長の対外的な仕事としても故林光先生には本当に色々な事で相談にのっていただいた。

そんな折私の曲を金炳華先生の指揮で録音して貰った事を林先生に話した。すると「おー!金君が…!」と大変喜び、また懐かしがって若い頃「歌声運動」を一緒にやった事を話された。

「金君はとっても情熱家でね。少しけんか早いとこもあったかなぁ…」と。

その後私がピョンヤンを訪れ金炳華先生に林光先生の事をお話しすると「ひかるちゃん元気!文芸同のこと色々助けてくれているんだ…」と、とても懐かしんでおられた。

また金先生は世界の音楽の流れにもとても敏感で、私が日本へ帰る時には「フランスの〇〇という作曲家の曲が話題になっているそうだが…」「私の家にスコア(オーケストラの楽譜)がありますが…」「それ、こんど見たいな…」「はい、今度持ってきますね…」という具合になる。

私が同胞のみなさんは共和国を代表する国立交響楽団の主席指揮者が帰国された方だという事をあまり知らない。

がんばって自分の夢を咲かせた先輩という意味でも、共和国音楽界の貴重な人材を失ったという意味でも私はもう一度黙祷を捧げる。

(金学権、作曲家)

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