〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 16〉

通信研究院に通う(통신연구원을 다니다)

《朝鮮新報》2021.09.05

1978年7月のある日、副学長から呼び出しがあった。行ってみると他にも呼ばれた教員がいた。副学長は私たちに「今年度から朝鮮大学校の教員の資質向上のために、金日成綜合大学に通信研究院 (現・通信博士院)制度が新設された。1期生としてトンムたち4名が夏休みに通信研究院に登校することになった」と言われた。

推薦されたのは政経学部から2名、文学部と歴史地理学部から各1名の計4名だ。私は教育代表団の一員として祖国を訪問し、機会を見て指導教授と会い論文のテーマなどを決めてくることになった。

出発前に、論文テーマを2つ考えた。一つは朝鮮語の토ト(吐)に関する研究で、もう一つは南朝鮮の言語実態に関する研究である。

祖国訪問後、指導教授と論文のテーマについて意見交換をした。私の考えを聞いた指導教授は「토に関する研究は今まで国内でいろいろ研究されているので、南朝鮮の言語実態に関する研究が良い」と言われた。南朝鮮の言語実態について今まで授業で扱ったことも、研究したこともなかったので不安はあったが、この機会に勉強するのも悪くないと思い、そうすることにした。

論文テーマは「南朝鮮に流布している反動的ブルジョア言語理論批判」に決まった。

論証する内容と体系を協議した後、研究計画を立てた。

10月から計画に沿って資料集めをしながら研究を進め、執筆要綱を具体化していった。

1980年4月から半年間、当時、大学に設置されていた「教員資質向上班」で研究する機会を与えられた。お蔭で、授業以外は論文の執筆に専念することができた。

予定通り80年12月に論文を指導教授に送った。新年早々、2月に登校するようにとの連絡が入った。

2月末から5月までの約3カ月間、大同江ホテルに宿泊しながら一日中部屋に閉じこもり、論文の修正作業に精を出した。

日曜日には担当部署の先生が来られて「一日中、部屋に閉じこもるのは健康によくない。頭を休めることも大事なことだ」と만경대(マンギョンデ・万景台)や모란봉(モランボン・牡丹峰)、룡악산(リョンアクサン・龍岳山)の清々しい空気を吸いに連れて行ってくれた。散歩中、家族のことや生い立ち、趣味などについて話を交わした。散歩後にチジム店によく連れて行ってもらった。チジム店の中でも万景台の緑豆チジムの味は天下一品だった。

教授の指導で忘れられない思い出がある。

ある日、私がいつものように部屋で論文の執筆をしていると、教授が部屋に入って来るなり机の上の本を全部持って「この本は、当分私が預かることにする」と言うと部屋から出て行かれた。突然のことで何が起きたのか分からずあっけに取られた。

しばらくして戻って来られた教授は「いつまで他人の資料ばかり見ているのだ。問題点がわかれば、その後は何が問題なのかを自分の頭で考えて、新しい論理を構築することだ。他人の主張を基に答を導き出そうとすると、頭が他人の奴隷になってしまう」と厳しく批判された。

その日から問題点を順序立てて考えてみた。考えが途中で行き詰まると元に戻って考え直した。こうして3日間、ようやく自分で立てた論理で考えをまとめることができた。

原稿を見た指導教授は「やればできるではないか。他人の考えにしがみついている限り自分の考えなど生まれてこない。そんな研究態度が自由な発想、新しい発想の妨げになるのだ。何事も自分を信じて挑戦することが重要だ」と諭すように言われた。

1千字ほどの原稿だったが、自分の頭で論理を構築していく過程の大切さを痛感した。

82年2月、論文の公開審査を受けに横浜港で万景峰号に乗った。平壌に着いた数日後、論文の審査を受けた。審査は、論文の概要発表、論文の講評、審査員の質疑応答と続いた。休憩後、論文審議委員会の結果が発表された。

その日の夕方、私が感謝の意を表して一席設けることになった。日本だと合格者が祝ってもらうのだが、朝鮮では、お世話してくださった方々にお礼する。後で知ったが、南朝鮮も同じだという。日本文化との違いをあらためて感じた。

翌日、金日成綜合大学の김영황(キムヨンファン)教授(現・院士、教授、博士)、社会科学院言語学研究所の최정후(チェジョンフ)教授(候補院士、教授、博士)と万景台を訪ねた。この時から今日まで스승(ススン師匠・恩師)と제자(チェジャ・弟子の関係が続いている。

日本に戻るまで최정후教授から論文の問題点、研究方向について詳しく話を聞いた。その後も祖国を訪問するたびに최정후教授と김영황教授の指導を受けた。최정후教授とは共同研究もした。そんな최정후教授が急に亡くなられた時は、とてもショックだった。김영황教授は、90歳を超える今も現役として活躍される傍ら、祖国を訪問する国語担当教員や文学歴史学部の学生も教えておられる。

「要求が行動を生み能力を育む」という指導教授のことばが身に染みる。

(朴点水 朝鮮語研究者)

스승の語源

스승(師匠、恩師)は「敬い慕う人」を呼ぶときに用いる言葉です。스승の語源を漢字語の「師僧」とみる人もいますが、この言葉は古くから朝鮮で使用されていた固有語です。この言葉の語源は「무당(巫女)」や「位の高い人」を指す固有語の스스히です。1145年に出版された「三国史記」によると、ウリナラでは무당を畏れ敬い차차웅(次次雄)、차충(次充)と言っていましたが、後に「族長」や「王」をそのように呼びました。「次次雄」「次充」を吏読式に解釈すれば스스히になります。ウリマルで単語末にㅎ音のある言葉は따히→땅(土地)、고히→코히→콩(豆)、마히+아지→망아지(仔馬)のようにパッチムㅇになる場合が多くみられます。스스히も単語末のㅎ音がパッチムㅇに変化して스승になりました。스승は15~18世紀に主に무당を意味していました。1587年に刊行された「小学諺解」には스승어믜という言葉が出て来ますが、この言葉は「尼」を意味し、1820年代の語彙集「物名攷」にある스승가얌は「かしら」「王」を意味します。

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