〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 19〉

教員話術研究会を組織する(교원화술연구회를 조직하다)

《朝鮮新報》2021.11.30

1984年、私が「在日朝鮮学生中央芸術大会及び口演大会」と「中央雄弁大会」の審査員として大会に初めて参加した時のことだ。

審査していて学生たちの発音や抑揚に違和感を覚えた。特に抑揚が気になった。「お話」なのに詩のように感情をこめてゆっくり話したり、日本語の影響から来る不自然な発音と抑揚でウリマルに聞こえない。漫才、演劇などにそのような傾向が強かった。

翌年の朝鮮大学校での口演大会でも同じことを感じた。教員の指導に問題がある、これを解決しないと口演大会の水準を高めることができないと思った。

1986年2月、東京朝鮮第4初中級学校の新校舎の建設を祝って、口演大会が新体育館で単独で開催された時、その思いはより強まった。

翌年の初秋、興味深い話を耳にした。東大阪朝鮮中級学校の許玉汝先生が、東大阪学区にある初級学校の教員に1986年から話術講習会を週1回指導しながら、翌年の87年からは大阪府下のウリ教員を対象に「大阪教職同技能講習会」を開いているというのだ。

この講習会に興味を持った。これを全国的な規模で組織したいと思った。そこで私は、口演大会の責任を担っていた同僚の徐正人先生に「来年の夏に全国話術講習会を開きたい。責任者と講師を受け持ってもらえないか」と話を持ち掛けたところ、快く承諾してくれた。私はすぐに許玉汝先生と連絡を取った。先生も「やりましょう」と言ってくれた。

こうして1988年8月、各地から集まった60余名の国語教員による2泊3日の「全国教員話術講習会」が初めて近畿学院で開催された。

講習会では、徐正人先生と許玉汝先生が講義と早口言葉、朗読などの実技始動を行った。私も、平壌文化語の抑揚について講義した。

学生を指導するには自分たちの実力がなければならないと、参加者全員が時間を惜しんで練習に励んだ。

講習会後、私は関東話術研究会を立ち上げるために東京朝鮮第1初中級学校の呉紅心先生と埼玉朝鮮初中級学校の李龍浩先生に相談した。

こうして1988年10月から上野の朝鮮商工会館で、呉紅心会長、李龍浩事務局長、副会長の私で事務局を務め、月1回「関東教員話術研究会」を運営することになった。私は主に学習テーマに沿って講師を準備した。講師には、朝鮮大学校文学部の先生を始め金剛山歌劇団からも来てもらった。

東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬など関東の各学校の男女教員20数名が参加した。話術研究会は、1990年代半ばまで続けた。

研究会は教員の熱意でそれなりに運営できたが、話術指導ができる講師不足が悩みの種だった。話術指導教員の育成を考えたが解決方法がみつからない。

そんなことに悩んでいた1989年7月末、朝鮮大学校教育代表団の一員として祖国を訪問した。平壌には、第13回世界青年学生祝典の奉仕団として多くの朝大生が滞在していた。その中の一人だった文学部の李汕玉(現朝大教授)トンムが윤이상(ユンイサン)音楽堂で話術の指導を受けているという。好奇心が湧いた。

윤이상音楽堂は、私の父が住んでいたアパートの目の前にあった。お蔭で7月30日の午前中、話術の指導過程をつぶさに見ることができた。ひらめくものがあった。指導後、すぐに「もし、朝大から学生を送れば指導してくれますか」と先生に聞いた。「担当部署で許可が下りればやりますよ」と言われた。

これが国立演劇団話術指導員の박경혜(パクキョンヘ)先生との最初の出会いだった。

父の仕事で代表団より一足先にウリナラに行っていなかったら、この出会いはなかっただろう。

翌年から2年間、朝大の李汕玉研究院生がウリナラで박경혜先生から話術の指導を受けた。

박경혜先生の指導は研究院生だけに留まらなかった。1991年から文学部学生祖国訪問団のウリマル話術指導も担当してもらった。国語教員講習会の指導も頼んだ。それから20数年間、学生たちと国語教員のウリマル話術指導を毎年してくださった。ウリ教員や朝大生たちの平壌文化語による話術技能は、このように祖国の地で培われた。

その後、各学校の先生の指導で、初中高の学生たちの話術水準はどんどん上がった。話術教育の成果は口演・雄弁大会に現れた。

1993年2月、朝鮮大学校で開催された「金正日総書記生誕51周年を記念する在日朝鮮学生中央口演及び雄弁大会」の優秀作品発表会では、埼玉朝鮮幼稚園生から朝大文学部の学生までが参加し、素晴らしい話術を披露した。

1999年の夏,祖国の格別な配慮で박경혜先生一行が来日され、東京、大阪、兵庫など各地で国語教員のための話術講習会が開かれた。滞在期間、私が先生方の案内人を務めた。

毎年、美しい朝鮮語で民族の魂を奏でる口演大会は、民族教育を通じてウリマルを学ぶ学生たちの喜びと矜持を、思い存分表現する場となっている。

出会いは、自分の人生を自ら切り開く新たな道への扉である。

祖国訪問での出会いは未来へつながる扉を開けてくれた。在日の次世代の人材は母なる祖国で育まれた。

(朴点水 朝鮮語研究者)

어른の語源

어른とは、「大人、成人」のことです。15世紀の文献には얼운という形で出てきます。この言葉の元の形は「男女関係を持つ、結婚する」という意味の어루다/얼우다です。어루다/얼우다の語幹の어루/얼우にㄴが付いて、어루+ㄴ→어룬→어른のように変化してできた言葉で「男女関係を持つ人、結婚した人」という意味です。어루다/얼우다の現代語は어우르다(一つにする、合わせる、性交する)で、その縮約形は어르다です。어른の形成過程は朝鮮の風習と関わりがあります。朝鮮では昔から어른の証を、年齢ではなく結婚したかどうかで判断していました。昔は幼くても結婚さえしていれば어른で、逆に成人でも結婚していないと大人扱いをしてもらえませんでした。例えば10歳で亡くなっても結婚していれば葬式を行いましたが、成人であっても結婚していなければ葬式を出してもらえず、棺にも入れてもらえませんでした。

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