〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器〉

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 1〉伽倻琴(カヤグム)

《朝鮮新報》2008.02.15

(康明姫・民族音楽資料室)

「幅広い民族音楽」を実現

12弦の伽倻琴

12弦の伽倻琴

祖国-朝鮮から民族楽器が送られてきて早40余年が過ぎた。それが私たち在日同胞の民族楽器の歴史の始まりといえよう。小さな手に楽器の温もりを感じたのが昨日のようで、時の流れの速さを感じさせる。

私もこの歴史の中にいるのだ。古代シルクロードを通して個々の国に渡来した楽器は、自国の風土や特徴に合わせて発展し根づいてきた。そして民族の心が染みこみ奏でるたびに心がゆれるのであろう。

イギリスの歴史学者アーノルド.J.トインビー(1889~1975)は、過去に朝鮮は「歴史を恨む国」と、表現している。なぜなら度重なる外敵の侵略と、植民地時期、戦争と分断を体験したからだ。その歴史の中で生きつづけた人々は、侵略に抵抗する不屈の精神を身につけ、比類ない独特な文化と特異な精神を生みだし、精神文化への知識を深めたとも言っている。

伽倻琴は固有の弦楽器の一つであるカヤッコともいう

伽倻琴は固有の弦楽器の一つであるカヤッコともいう

その代表的な物の一つに「伽倻琴(カヤグム)」がある。その音には「恨」だけではなく、民族に対する誇りと、何事にも屈しない民族の力、楽天的であり文化を愛した民族の心が秘められている事を忘れてはならない。

「三国史記」によれば伽倻国の嘉実王が楽師(演奏者)于勒に命じ、十二弦琴とその楽曲を作らせたのが始まりとされるが、4世紀以前のものと推定される新羅の土偶に伽倻琴を演奏する人の姿が飾られており、また中国の文献に三韓時代に既に固有の弦楽器があるという記録がある事から6世紀以前に既に存在していたと思われる。嘉実王自ら制作したとも書かれている。

于勒は6世紀の大伽倻ソンヨルの人で、伽倻国滅亡ののち、新羅に亡命。弟子それぞれに琴、歌、舞を教えながら、伽倻琴曲12曲を作り、自ら奏で広めたという。

于勒が伽倻琴に託して見開いた物こそ「楽而不流」「哀而不悲」(楽しくして流れず。哀しくして悲しまず)の精神だとされる。

「恨」を奏でようとしたのではなく、「恨」から解きはなたれようとする想いを、伽倻琴の音律としつづけた。それは今も変わることはない。

伽倻琴は、正樂伽倻琴(法琴ポックム)を演奏するための楽器と散調伽倻琴の2種類が伝えられた。正樂伽倻琴は新羅時代から存在して来た原型のもので、 散調伽倻琴は散調と民俗樂の演奏をする朝鮮後期に改良されたものである。19世紀末頃に生まれた散調により楽器の特徴が活性化された。この2種類の伽倻琴の構造はほとんど同じだが、大きさ、音域、音色および演奏する方法が異なる。

いまでは19弦、21弦、25弦と改良された物も多く使われている。朝鮮では、西洋音楽との違いやそれぞれの特性を比べながら「幅広い民族音楽」を強調している。民族音楽は伝統音楽をそのまま継承したものではなく、その性格を土台として新たに創作された音楽を指すとされ、躍動的で洗練された音楽も数多く作られた。楽器の改良も1960年代から現代的に改良する活動を本格的に行ってきた。5音階の民族楽器を12半音階にする事で演奏の幅が広がり、古典はもちろん、さまざまな音楽を演奏できるようになったとされている。

人の声にもっとも近いとされる伽倻琴は、在日同胞にももっとも愛される楽器であると言えよう。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 2〉コムンゴ

ソンビの気性を表す楽器

コムンゴ

コムンゴ

さて、今回は皆さんにとってまだなじみの浅い、しかし長い歴史を持つ民族楽器を紹介しよう。数年前に金剛山歌劇団公演で演奏を聴いた方はもう一度記憶をたどってその音を思い出してほしい。その楽器はコムンゴ(漢字で「玄琴」または「玄鶴琴」と書く)である。

演奏の手元

演奏の手元

朝鮮民主主義人民共和国創建20周年記念商品展覧会が上野で行われた際に、会場のバックミュージックとしてその録音演奏が流れていた。今まで聞いた事のない楽器の音に魅せられ、ランドセルを背負い友だちと連日訪れた思い出がある。

「三国史記」によれば、コムンゴは4世紀に中国・晉の国の七絃琴を発展させた3大楽聖の一人、高句麗の王山岳により作られたとされている。王山岳は100あまりの曲を作り、王の前で演奏したとされ、彼が演奏すると二千年は生きると言われた黒い鶴、玄鶴が飛んできて、琴の音色に合わせて踊りを踊った(玄鶴来舞)ということから、玄鶴琴と言われたと伝えられた。

だが、高句麗壁画にその原型が描かれていることから、それ以前に国固有の弦楽器が存在し、それが発展して現在のコムンゴになったとも言われた。楽器の名前は高句麗にちなんで付けられたもので、高句麗の弦楽器の意味を持つともいわれている。

コムンゴは統一新羅以後、 玉宝高からはじまり、続明得→貴金→安長→清長→克宗に受け継がれ広く普及された。

コムンゴは前面は桐、裏面は栗の木を使い、全長140センチほどで弦は絹糸になっており、スルテがあたる部分には皮(玳瑁)が敷かれている。一番太い第三弦は大弦、第一弦は文弦、第六弦は武弦、第四弦は棵上清、第五弦は棵下清、第二弦は遊弦の6本で、順にだんだんと細くなる。16個の棵と3個の雁足があるコムンゴはスルテ(匙)と呼ばれる細くて短いばちで弦をたたいたり、すくったりして音を出し、伽倻琴、琵琶と並ぶ代表的な弦楽器とされる。

コムンゴをスルテで演奏する

コムンゴをスルテで演奏する

以前紹介した伽倻琴は弦が12本で演奏も直接指で行うが、コムンゴは弦が6本でスルテで演奏する違いがあり、伽倻琴では出すことができない、荒々しい音を出すことができ、低音は凛々しく響く。

最高の楽器を意味する百楽之長と呼ばれ、ソンビ(学者、士)の気性を表す楽器として広く崇拝され、自身の精神修養のために演奏したとされている。その音色はソンビの高い精神性をそのまま表現した楽器とされた。現在コムンゴは管絃合奏には必ず組み入れられるが、女性奏者も多く、散調や変奏曲など独奏楽器としても高い人気を集めている。まだ同胞の中では注目度が低い楽器であるが、多くの若者たちに手にとってほしい大切な民族楽器であることに違いない。

(メモ)3大楽聖と呼ばれた3人の音楽の聖人は、高句麗の王山岳、新羅の于勒、そして朝鮮の朴堧である。それぞれの時代に、わが国独自の楽器を作り出し、その楽器のための曲を数多く作ったとされている。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 3〉アジェン

ルーツは唐の軋筝(ヤーシェン)か、雄壮で、安定感ある音色

アジェン

アジェン

祖国からはじめて贈られた民族楽器は、当時、東京朝鮮第1初中級学校の新しく建てられた幼稚園3階講堂の、はめ込み式ケース棚(当時は鍵が付けられていた)に置かれた。22種類97点の楽器の中にアジェン(牙筝)はあった。

アジェンは、従来の楽器とは違って改良され、楽器台に乗せ、毛を張った弓で弾き、楽器の種類も大、中、小とあり、音域にあわせた演奏がまた楽しげであった。

当時の楽器はたしか、弦の数がソ(小)アジェン、チュン(中)アジェンは13弦(当時の伽倻琴と同じ)、テ(大)アジェンは8弦と記憶しているが定かではない(読者の中で覚えている諸先輩がいらっしゃるなら是非一報願いたいところだ)。

アジェンの演奏

アジェンの演奏

さて、楽器の説明にはいろう。

アジェンは擦絃(さつげん)楽器の一つで、ケナリ(レンギョウ)の木の皮を剥ぎ、松脂をつけた棒で弦をこすって音を出す楽器である。ケナリの木を要したのは、中が空洞になっていて絃を共鳴させるのにいいとされたからだ。ヘグムと共に合奏に使われる低音楽器であり、また、弦楽器の中ではもっとも音域が狭い楽器である。

本来、中国の楽器とされ、高麗時代には唐楽だけに用いたが、その後郷楽で演奏された。アジェンのルーツは唐の時代の末に北方民族が伝えた軋筝(あっそう)にあるようだ。はじめは竹片で弦を擦っていたが、やがて木の棒や馬毛の弓がこれにとってかわった。宋代や明代の記録は、民間の合奏でさかんに演奏されたと記されているようだが、同じ擦弦楽器の胡弓のほうが持ち運びや扱いが手ごろだったせいか、いつしかその姿は見えなくなる。擦奏する筝類は今ではたいへん珍しく、漢民族の住む範囲では黄河中流域と福建省にしか見られないとの事で残念でならない。

8絃、散調アジェン

8絃、散調アジェン

ウリナラのアジェンは本来前が桐の木、後ろは栗の木で作られていて、南朝鮮では弦の数も従来の7絃から8絃、9絃と増え、種類も正楽アジェンと散調アジェンの2つがある。全長は125センチ、弓にも毛をはり弾きやすくなった。絃は絹糸を使用し、伽倻琴と同じようにアンジョク(雁足)で支える。外側の音が低く、中側(体に近い方)に行くにつれ絃も細く音が高くなって行く。

右手に持つ弓で絃を弾き、左手は弦を押したりして演奏する。アジェンの音色は雄壮かつ力強く強烈な感じをもたらし、低音は合奏音楽に重さと安定感を思わせる。

また、アジェンは演奏者の左部分にあたる楽器下部分が曲がっているのが特徴的だと言えよう。

第1回目に紹介した12弦伽倻琴より大きく弦はそれより太い。

伽倻琴やコムンゴのように膝には置かず、草床という台に乗せ、頭の部分を斜めにして演奏するが、やはりじかに座ったまま弾く。

朝鮮では90年代以後、再度アジェンの普及に力をいれ、2000年以来コムンゴと同様新しい作品が作られ発表されている。

今後、楽器アジェンの行く末が楽しみである。

(メモ)唐楽:統一新羅の時から使われた中国系の俗楽(雅楽・能楽などに対して、民間で行われる音楽)。

郷楽:伝統的な音楽を示し、俗楽とも言われ三国時代に普及された中国の唐楽と区分するために付けられた名前だとされている。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 4〉奚琴(ヘグム)

金、石など八つの材料で製造、女性好みの哀切あふれる音色

60年代以降、朝鮮から贈られてきた奚琴

60年代以降、朝鮮から贈られてきた奚琴

今回は奚琴(해금)を紹介しよう。

朝鮮では「ヘグム」(혜금)、または「ケグム」と呼ばれ、中国・元朝の時代には「胡弓」と呼ばれた擦絃楽器。地域によりその呼称を「エングム」または楽器音をまねた「カンカンイ」や「カンケンイ」と呼ばれたりもする。タイでは「ソードゥァン」、日本では「胡弓」、中国では「二胡」と呼ぶ。

奚琴は本来、中央アジア系統の楽器であったが、唐の時代に中国を経てわが国へ渡って来たとされている。現在の奚琴は高麗睿宗9年(1114年)に、宋の国から収入された物を改良した楽器である。

文獻通考によると、秦の郷土が奚琴の原型とされているが、奚琴は唐の時代、中国北部に住んでいた遊牧民族の「奚」部族が好んだ楽器とされている。奚琴の名はどうもこの「奚」部族と関連があるように思えるが、定かではない。

二本の絃の間に竹の棒を入れて引いて音をだす奚琴は、民間でも親しまれた楽器のようだ。

三絃六角の演奏風景

三絃六角の演奏風景

わが国で奚琴ははじめ郷楽に使われていたが、高麗時代以降、唐楽の合奏にも使われるようになった。朝鮮王朝中期には調絃や演奏法が改められ、それが今日まで伝えられている。

切なく悲しげな音色がこの楽器の特徴で、最近では南朝鮮で女性に人気が高いと聞く。私も心惹かれる一人である。楽器もコンパクトで軽く、持ち歩くのも簡単だ。

奚琴は、金、石、絲、竹、匏、土、革、木の八音、すなわち楽器を作る八つの材料をすべて使い作られる。楽器本体には金、絲、竹、匏、木、そしてくりぬかれた筒の中には石(中に塗られた石澗)、弓の部分では革や土(松脂)が使われている

また、奚琴は三絃六角(楽器編成のひとつ)で使われる唯一の弦楽器であると共に、正楽や散調そして最近では創作音楽など演奏範囲も広くなり、南朝鮮の大河ドラマではなじみの楽器になっている。

古来から伝わる奚琴

古来から伝わる奚琴

1960年代からは朝鮮で改良が続けられ、私も形や大きさ、共鳴筒の厚さなど何度か変わった楽器を手にしたが、ここ数年で定着した感じがする。

本来の奚琴は絹糸を二本張り、胡弓のように演奏するが、改良されてからは絃も鉄線を使い、数は四本に増え、奏法はバイオリンのように弦の上から弓で引いて音を出すようになった。

種類も音域により、小奚琴、中奚琴、大奚琴、低奚琴と四種類に増え、西洋楽器でいうなら、バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスを意識したと言えるが、これは西洋音楽のほか多様な音楽を奏でるためである。音色は澄んでいてやわらかい。

楽器の頭の部分はかえでの木やオノオレカンバを使い、糸巻き部分は黒檀や茶檀も使う他、共鳴版などは桐の木、エゾマツなどを使う。弓の毛はバイオリン同様馬の尾を要る。椅子に座り専用の台を楽器に固定し演奏するが、音域も広く古典音楽から民俗音楽、その他さまざまな音楽にまで幅広く用いられる。音を出すまで少し苦労するが、親しむ中できっと心に残る音色が生まれるに違いない。

(メモ)三絃六角:三絃といわれるコムンゴ、伽倻琴、ビパと、六角といわれるピリ2、チョッテ1、奚琴1、チャンゴ1、プク1の演奏編成を言う。現在では六角のみで演奏されるが、主に舞踊伴奏で使われ、場合により楽器の種類を増やしたり編成人数を多少変えたりもする。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 5〉洋琴(ヤングム)

欧州~シルクロード経て朝鮮へ、金属性の明るい音色

ヤングム

ヤングム

朝鮮半島の民族楽器の形態は、床に座って生活する「オンドル文化」と密接な関係があるようだ。それらは内陸から伝えられたもの、朝鮮で変化したものなど65種類ほどが伝えられている。

楽器のルーツや普及の時期、発展過程などはさまざまで、洋琴も例外ではない。

洋琴は打絃楽器の一つで、西洋琴、天琴とも呼ばれる。本来、回教音楽に使われた。

10世紀から12世紀のローマ帝国時代に十字軍によって欧州に伝わり、中世紀以後欧州各国で広く普及した。1580年頃には中国に渡り、その後朝鮮半島へ伝えられたとされている。

名前の由来は、「西洋から伝来した琴」という意味で、中国では「洋琴」から「楊琴」、そして「揚琴」となり今日に及ぶ。朝鮮では従来どおり「洋琴」のまま定着したようだ。

ハンマーダルシマ

ハンマーダルシマ

資料を探ると、「民族楽器で唯一鉄線を使った楽器である」と書かれることがほとんどだが、朝鮮ではチョグムという楽器が鉄線楽器としてすでに1960年代に普及していた。

また本来、ダルシマ、チェンバロなどの楽器が洋琴と呼ばれたため、この楽器の歴史は他の民族楽器に比べてさほど長くない。

日本では西洋楽器にまだなじみがなかった明治時代、オルガン・ピアノは風琴・洋琴と呼ばれていた。最近では「源氏物語と洋琴」と題し、朗読とピアノ演奏なども行われているようだが、「洋琴」と書くところに昔を懐かしむ心が見え隠れする。

本来洋琴は床に座ったまま片手を楽器に添えて、もう一方の手で撥を持ち演奏するが、楽器をそのまま床に置いても演奏する。今では両手で演奏することもある。

わが国の伝統楽器の誕生は大きく二種類に分類される。その一つは生活道具が応用されて楽器に発展したもの、もう一つは他国の楽器が流れ着き、使われる過程で定着したもの。

台の上の洋琴

台の上の洋琴

朝鮮に紹介された外国の楽器は、以前紹介した伽倻琴やコムンゴのようにわが国に渡った後に楽器の形態と演奏の方法が変形したものもある。それらと比較しても、洋琴はほとんど本来の姿を残していると言えよう。

洋琴は、西洋楽器のように7音階で調整をしながら全部で21の音を出す。重複する音を含めて音域は2オクターブ半になる。金属性の明るい音で独奏楽器としては使われなかった。

演奏風景(右端が洋琴)

演奏風景(右端が洋琴)

1960年頃から改良が重ねられた洋琴は現在、絃の数が67本に増え、両手に先端を羊の毛で巻いた竹の撥を持って演奏する。音色も古来のものより柔らかく華麗で、音量もはるかに大きくなった。楽器に足が付き、椅子に座って演奏する。ミュートもつき、音の響きを自由に止められる。南朝鮮でも注目される楽器の一つである。

現在は独奏楽器の伴奏や重奏、合奏で欠かせない楽器の一つとなった。そして、独奏楽器としての幅も広がった。

その美しい響きに心和ませる人も多く、朝鮮の「癒し系」楽器ともいえよう。ピアノのようなハープのような美しい音色からは、シルクロードの香りが漂ってくる。

(メモ)弦楽器の種類

  • 擦絃楽器:弓または棒で、弦をこすって音を出す。
  • 撥絃楽器:弦をはじいて音を出す。
  • 打絃楽器:弦をバチで打って演奏する。
〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 6〉ピリ

管楽器の「花形」、高句麗音楽の音色を現代に

朝鮮半島のピリ

朝鮮半島のピリ

ピリは朝鮮半島のダブルリードの縦笛。一般的に言われる笛(リコーダや横笛など)とは異なる。ピリの種類にはヒャン(郷)ピリ、セ(細)ピリ、タン(唐)ピリ、そして 朝鮮で改良されたテ(大)ピリ、チョウム(低音)ピリなどがあるが、木の葉で音を出す草笛、柳の皮などをはがして音を出すものまですべてピリと言う。

楓などで作るテピリは本来のピリより1オクターブ低く、音域も12半音階に調律し、演奏の幅を広げた。

ピリ改良の中で新しく生まれたのがチョウムピリで、低音を中心とした幅広い音量と独特な音色で表現の幅を広げた。

ピリは漢字で、「篥」と書く。「篳篥」と書くこともある。中国の漢字表記で「非理(bi-ri)」と発音したのが朝鮮で「ピリ」と発音されるようになった。

ピリは世界中いろんな所にあったとされている。

04年にはマンモスの牙で作られたピリがドイツ・シュバベン地方の洞窟で発見され、これらは3万年から3万7000年前の物と推定、94年には同じ洞窟から3万6000年前のものと推定される白鳥の骨で作ったピリが2つ発見された。これらのピリが歴史的に一番古い楽器とされている。

*バラバン(トルコ、左上)、バラマン(アゼルバイジャン、右上)、篳篥(ヒチリキ、日本、左下)、管子(グァンズ、中国、右下)

バラバン(トルコ、左上)、バラマン(アゼルバイジャン、右上)、篳篥(ヒチリキ、日本、左下)、管子(グァンズ、中国、右下)

朝鮮ではいつからピリを作って吹き始めたのだろうか。

正確にはわからないが、中国の文献にある高句麗音楽の中や唐の宮廷で演奏された高句麗音楽編成にピリがあることから、5~6世紀頃には現在のようなピリが使われたということが分かる。

高麗時代以後、ピリは朝鮮時代を経て今日まで、主旋律を担当する楽器として、宮庭音楽から民俗音楽に至るまで幅広く使われた。

主にタンピリは、宗廟祭礼楽ほか唐楽、ヒャンピリは宮庭音楽のほか民俗音楽合奏、巫俗音楽、舞踊伴奏など、セピリは歌曲伴奏に使われるなど、いわばピリは「花形の楽器」だと言える。

吹き口がリードになっている分、やや難しい楽器でもあるが風流の瞑想を感じさせ、甘い休息のひと時へ誘うような音色を持つといわれているだけある。

音域は五音階とせまいが、大きな音で主旋律を導くメロディー楽器として人々を楽しませてくれている。

ピリは、長い歴史の中でも原型を保つ数少ない楽器の一つである。

このような歴史深く特徴的な楽器を、もっと普及して行きたい。

ピリに興味をもたれた方は、是非一度、手にとって魅力的なその音に親しんでもらいたい。

(メモ)アゼルバイジャン:カフカス山脈の南、カスピ海の西南岸に位置する西アジアの一地方。北半部がアゼルバイジャン共和国、南半部がイラン領、東アーザルバーイジャーン州・西アーザルバーイジャーン州となっている。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 7〉チョッテ

「萬波息笛」と呼ばれた国宝、柔らかく優雅な音色

チョッテ

チョッテ

我が国で改良されたチョッテ(煽企、腺企)には、高音チョッテ、中音チョッテ、そして低音のチョッテの三種類がある。

大きさは異なるが構造は同じだ。

チョッテの音色は柔らかく優雅で、どこか悲しげな感じがするが、時には力強く王の風格を思わせる。

高音チョッテは、独奏楽器としても魅力的で、重奏や合奏ではほとんどの曲でソロを担当する華やかな楽器でもある。

新羅時代の代表的な三絃-カヤグム、コムンゴ、ヒャンビパと、三竹-テハム(大●、●=竹冠に今)、チュンハム(中●)、ソハム(小●)の一つで、一番長くて細く、南朝鮮では「テグム」と呼ぶのが一般的である。

竹で作った管楽器の中では一番大きな楽器で、コムンゴ、カヤグムとともに、古い歴史を持つ代表的な伝統楽器の一つでもある。

昔からテグムは、管弦演奏をするときに、すべての楽器の音あわせをする役目をしてきた。

散調テグム(上)と正楽テグム(下)

散調テグム(上)と正楽テグム(下)

また、「チョ、チョッ(笛)」とも呼ばれるこの楽器の由来は、「三国史記」(朝鮮半島現存最古の歴史書、三国時代から統一新羅末期までを対象とする)、「三国遺事」(「三国史記」に次ぐ朝鮮古代の歴史書、前書にもれた逸話や伝説の類が広く収められている)をはじめいろいろな記録が伝えられているが、408年に作られた徳興里壁画古墳に描かれた高句麗壁画にも見られることから、5世紀はじめより以前に作られたとも言われているが定かではない。

「三国史記」によると、新羅時代にこのテグムの曲は324曲にも及んだとされている。

さて、ここで「三国遺事」の記録に残された話を取り上げてみよう。

新羅31代神文王は即位した後、先王の文武大王のために東海辺に感恩寺を建てた。

ある日、東海に出て臣下の報告を受けたが、報告によると、海の真ん中に小さな山が浮かび、珍しいことにその山に竹がひとかぶあるという。

昼には二つある竹が、夜になると合わさって一つになるとの事。

楽器を吹く様

楽器を吹く様

王が自ら行って龍(先王)に尋ねてみると、龍は「片手でなく両手を使って叩いてこそ音がするように、竹も合わさり初めて音がする」と答えた。

これは、聖王が音で天下を治めるという良い知らせ(吉報)。この竹を切って笛を作り吹けば、天下が平和になると言うのだ。

そして、その竹で笛を作り吹く事で、病が治り、敵兵が退いて、日照りに雨が降り、梅雨は終わり、風が静まって、波も穏やかになり、これを萬波息笛と呼んで国宝としたそうな.。

このような記録から見ると、当時チョッテはまさしく神器だったのだろう。

テグムには正楽テグムと散調テグムがあるが、昔から伝わるテグムは、正楽テグムで、19世紀伽 琴散調の誕生後、その影響を受け区分されるようになった。

散調テグムは正楽テグムより少し短く、音程も長2度ほど高いのが特徴といえる。

今も尚、その音色は名曲と共に語り続けられ、南北共に次世代に受け継がれている。

我が国固有の表現と音色を持つチョッテは、民族伝統楽器を語る上で欠かせない楽器であり、人々に愛される楽器の一つであるに違いない。

(メモ)18世紀末、主に南道地方を中心とした巫俗音楽に基本を置いた、シナウィとパンソリが発達しながら、散調音楽が誕生したとされる。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 8〉月琴、郷琵琶

丸く美しい月の形、高句麗時代の音色を伝える

ウリナラの月琴(左)、中国の月琴

ウリナラの月琴(左)、中国の月琴

今回からは人々がよく知っている、古楽器を紹介しよう。

遥かかなたシルクロードをたどり、沢山の国々の物として根づいた楽器、わが国にも伝えられた古楽器のうち、まず月琴を紹介しよう。

この楽器は、高句麗の時代から発展してきた撥絃楽器の一つで、共鳴版の形が月のように丸く美しい音色を持つことから月琴と呼ばれた。

また、阮咸、秦琵琶、秦漢子とも呼ぶ。

郷琵琶(左)、中国琵琶

郷琵琶(左)、中国琵琶

4本の絃(子絃、中絃、大鉉、武絃)、4つの糸巻きと13の柱がある。

大きさは丸い部分(共鳴版)の直径が39.3センチ、絃の長さは58.3センチで、右胸に抱え、右手でスルテ(竹で作った棒)を持ち弾いて演奏するほか、カヤグムのように指で絃をはじきながらも演奏する。

三室塚、楽学軌範そして日本の正倉院の物はすべて4絃であるが、舞踊塚のものは5絃であるところから、月琴には4弦と5絃があったとされている。

中国ではネックが長い方を玩咸、短い方を月琴と区分して呼んでいた。

月琴は民間では広く使われず、宮廷音楽(主に郷楽)で使われたが、現在では楽器だけが伝えられ、保存されている。わが国ではほとんど演奏されていない。

次に郷琵琶を紹介しよう。

高句麗古墳壁画の舞踊塚に描かれた人たち

高句麗古墳壁画の舞踊塚に描かれた人たち

新羅の三絃三竹のうち三絃の一つで、月琴と同じ撥絃楽器。五弦琵琶、直頸琵琶とも呼ばれた。

三国時代末から朝鮮末期まで宮中で使われた代表的な郷楽器で、唐琵琶と区分するため、郷琵琶と名付けた。

5絃で10個の駒があり、ネックとヘッドが連結している。共鳴版の前の部分は桐の木、後ろ部分は栗の木を使った。演奏は左手の指で絃と駒の上を押し、右手に玄琴のようにスルテを持ち絃を弾く。

郷琵琶は、4絃でネックが曲がっている唐琵琶と違って、5絃でネックが真っ直ぐな点が特徴といえる。

琵琶は、4世紀ごろ中央アジアからシルクロードを通って中国に入ってきたといわれている。

日本の琵琶

日本の琵琶

記録によると、わが国には、高麗文宗(1019~1083)の時期中国から来たと伝えられたが、西域地方の音楽にだけ使われた点をみても、西域地方の楽器である事は明らかである。コムンゴと同じくスルテを使って演奏するなど、唐琵琶とは異なる。すでに高句麗時代に渡来し、高句麗から新羅に伝わったとされている。

このように楽器は西から東へと渡り伝えられ、その楽器から風土の匂いがする楽曲が生まれたのであろう。最近では正倉院復元楽器での演奏会もあり、聴いてみると、その時代の音色や音楽に感じ触れることができる。

皆さんも機会があれば一度演奏会へ足を運び、いろんな古楽器と対面してみてはいかがだろう。

(メモ)楽学軌範:書籍名。朝鮮成宗24(1493)年に王の命により書かれた音楽に関する指針書。高麗歌謡・百済歌謡などが書かれていて、演奏した音楽を描くことで解説した。

三室塚:中国吉林省集安県如山南に位置する高句麗の壁画古墳の一つ。

舞踊塚:中国吉林省輯安県通溝に位置する高句麗の壁画古墳の一つ。

三絃三竹:統一新羅後に属する郷楽器の名称。三絃は玄琴、伽耶琴、郷琵琶。三竹は大、中、小の編成。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 9〉臥箜篌(ワゴンフ)、豎箜篌(スゴンフ)

ハープのような優しい音色、いろんな形と絃の数

臥箜篌(ワゴンフ)

臥箜篌(ワゴンフ)

新年最初の楽器は、前回に続いて古楽器の箜篌を紹介しよう。

箜篌は、古代中国・朝鮮・日本で使われた撥絃楽器の一つでハープに似ている。日本では百濟琴と呼ばれている。

種類は、臥箜篌(ワゴンフ)、豎箜篌(スゴンフ)、小箜篌、大箜篌と絃の数が異なるいろいろな形の物がある。

はじめに紹介する臥箜篌は、「臥」=寝ているコンフとの意味。

船の形に作られた共鳴筒には13の絃が斜めに張られている。ワゴンフは曲がった形が鳳凰に似ていることから鳳首箜篌とも言われる。絃が共鳴筒に斜めに連結されていて、共鳴筒にはケヤキなどを、絃は絹糸が使われている。

小箜篌(ソゴンフ)

小箜篌(ソゴンフ)

次に豎箜篌は、「豎」=立っているコンフという意味。スゴンフは21の絃が共鳴筒に垂直に連結している。ハープのように音色がきれいで音量が大きい。 楽器を作る材料はワゴンフと同じで、ワゴンフ同様、高句麗時代に使われたという記録があるが、その後の痕跡を探すことはできない。

スゴンフはエジプト・ユダヤ・ギリシャなどの地で流行し、その後、ペルシャ・インドに伝えられ、ここで東西に伝播したと思われる。そのうち中国に渡った楽器はコンフと呼ばれ、ヨーロッパに渡った楽器は西洋楽器のハープとなる。

小箜篌は、スゴンフより少し小さくて、絃に細い鉄絲を使った。コンフの中では13絃で一番小さい楽器である。

楽器を作る材料はワゴンフと同じだ。 曲がった部分が共鳴筒になっている。

新羅の聖徳王により作られた上院寺(江原道平昌郡)の梵鐘にコンフを演奏する人の姿が刻まれているが、それを見ると今のソゴンフと同じで、取っ手を腰に付挿し両手で演奏する様子が伺える。

豎箜篌(スゴンフ)

豎箜篌(スゴンフ)

大箜篌は23絃で、ソゴンフと同じ形だがそれより大きい。下柱を腰にあてて演奏する。百済から日本へ伝わったのはテゴンフで、今もその楽器は奈良の正倉院に保存されている。

ワゴンフとスゴンフについては、隋書で高句麗音楽が初めて紹介される中で主要な楽器として取り上げられている。コンフの姿は「三国史記」樂志の百済楽にもあり、前述した新羅の上院寺の梵鐘の他にも、1980年に発見された渤海文王(三代目王)の四女ジョンヒョ王女が葬られた古墳壁画にも描かれている。

高麗時代に入っても音楽構成にコンフが含まれていることから、三国時代に高句麗が西域の音楽を受け入れながら普及され、高麗時代(睿宗1079~1122)まで広く使われた事がわかるが、その後はわが国の音楽から消えて行く。淋しい事だが、時代や歴史の流れの中で姿を消したのだろう。南朝鮮では1937年に中国から一台ずつ輸入した、ワゴンフとスゴンフがあるだけにとどまっている。

朝鮮では1960年代からワゴンフの改良が始まり、絃を13絃から20絃にする事で音域を広げ、筒を大きくして音量にも幅を持たせた。そのような改良の結果、演奏の場を広めたとされているが、現在に至っては演奏される事がほとんどなくその音色を耳にするのは難しいようだ。

(メモ)隋書:中国二十四史伝の一つ。高祖 李淵(初代皇帝566年)、太宗 李世民(二代目皇帝)、高宗 李治(三代目皇帝)の隋三代を扱った歴史書。全85巻。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 10〉蟹降、螺角、笙簧

農楽の始まりを告げるラバル、日本の雅楽との関わりも

ラバル

ラバル

今回は管楽器のルーツを隣国に及ぼした影響を考えながらたどることにしよう。

まずはわが国で唯一とされている金管楽器、ラバルの紹介。

この楽器は楽器作りの主な材料である八音-金・石・糸・竹・匏・土・革・木の8種類を材料とせず金属でできた楽器で、上の部分にマウスピースがあり胴体は細い筒状になっていて下の部分がセナプの下部分の銅八郎のように開いている。

楽器には穴がなく、一つの音だけを長くもしくは短く出すだけで旋律は演奏しない。この楽器を使い始めたとされるのは1370年(高麗・恭愍王19年)頃。軍隊の行進音楽を奏でる上でセナプ、ラガク(ナガクともいう)、バラ、ジン、ヨンゴなどと一緒に使われ、軍隊での合図にも使われた。また、プンムルノリ(農楽)では行進、音楽の始まりを知らせる信号音として重要な役割を果たした。南朝鮮では長く伸びているラバルをしまうときは3つに分けるよう考案されている。

センファン

センファン

次は軍隊行進で使われたもう一つの楽器、ラガク。「ナ (螺)」 または「ソラ(螺)」または「コドンイ」とも呼ばれる管楽器の一つだ。海にいる大きな巻貝のとがった部分に吹口を作って挟む。 この楽器は単純ないくつかの倍音を出すことができ、低く響きわたる音は雄壮だ。高麗時代、宮廷での行事軍楽にラバルとかわるがわる使われた。

最後に紹介する楽器はセンファン(笙篁とも記す)だ。三国時代から使われた国楽器の中で唯一の和音楽器で、わが国固有の楽器である。新羅成徳王24(725)年につくられた上院寺の鐘などに刻まれている。

センファンは17個の菅がありそれを細い糸で固定する。やかんの口のような形の部分に口をつけ、息を吹き入れたり吸いながら演奏すると高さの異なる16の音がでる。主に宮廷音楽や音楽家たちが演奏した。

さて、この楽器を見る限り、読者は日本の雅楽の笙を思い浮かべたことと思う。ここで少しだけ雅楽のルーツをたどって見ることにしよう。雅楽とは、日本で一番古くからある音楽や踊りを、奈良、平安期頃に同外来物と合わせて様式化したものをいうが、海を挟んで中国、朝鮮とは、遣渤海使、遣唐使、遣隋使が派遣されるずっと前から様々な交流があったとされる。

ラガク

ラガク

日本書紀に允恭王の時(453年)、朝鮮の新羅王が、新羅の楽士80人を派遣して允恭王の葬儀に参列したということが記されている。これが文献に見える外国の楽舞が日本へ来た最初の記録と思われる。このときは葬儀に参列しただけだったが、その後の欽明王15(554)年には、百済の楽人4人が来日し、先任者と交代しようとしたとの記録が残されている。「交代」の記録からすでに楽人が日本に滞在していたことがわかり、この時代には百済の楽舞、高句麗の楽舞が渡来していたことが見えてくる。

また、推古王20(612)年に、百済の味摩之が日本に住みながら伎楽(中国大陸の呉国に伝わる楽舞)を伝えた。そのため日本では呉楽といわれた。

日本の雅楽は、日本古来の歌舞と大陸などを通じて日本に伝わってきた楽舞と大きく二つに分けることができる。大陸から伝わった楽舞は、さらに二つに分けることができ、それが、左方の楽舞「唐楽」と右方の楽舞「高麗楽(新羅、百済、高句麗、そして渤海楽)」となる。わが国は中国同様、日本に音楽文化を伝えた国の一つであった。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 11〉教坊鼓(キョバンゴ)、編鐘(ピョンジョン)、柷(チュク)

地と空開き、音楽始める 太鼓に青、赤などで方位示す

キョバンゴ

キョバンゴ

2回に渡り古楽器の中から弦楽器、そして管楽器の紹介をしてきたが、少しでも古来の楽器に親しみを感じてもらえただろうか。

民族楽器の多くは、その民族固有のもののように思われるが、時代、文化、宗教、そして他の民族楽器などの影響を受けたものも多く、その正確な由来や歴史が不明なものが少なくない。これらの楽器はどのように伝えられどんな影響を受け発展したのか、見る角度や立場によっても多少違いがあるようだ。

今日はそんな中で、もっとも種類の多い打楽器の紹介に入りたいと思う。

最初にキョバンゴを紹介しよう。

打楽器(太鼓)の一つで唐楽器といわれる。中国唐の国敎坊で使っていた太鼓で、4つの足でできた枠組みの上に皮が上を向くよう置き音を出す。

本体には蟠龍が描かれている。宋の国の物もこれに似ていて撥で叩くとチャンゴに似た音がでる。元の国では宴楽、明の国では丹階楽、清国では合楽で使う。

ピョンジョン

ピョンジョン

わが国では1370年高麗恭愍王の頃から使われた。

主に唐楽や行楽で使われ行楽の時は、四人もしくは二人で持ち歩きながら叩く。

高麗の時代、舞鼓の舞で使われたが、太鼓を置く枠組の足は3本で大きさは少し小さい。

そして太鼓には蟠龍のかわりに青、赤、白、黒色を塗り東西南北の方位を象徴した。

次にピョンジョンを紹介しよう。

オ

中国でのピョンジョンの歴史は古く、すでに西周朝初期の出土に見られその数は400~500を数えるとされる。チャイム・ベル(Chime Bells)またはチャイニーズ・カリヨン(Chinese Carillon)と呼ばれているが、わが国には高麗睿宗11年(1116年)、宋の国から輸入して使われた。

ピョンジョンは鉄類(金属)で作られた打楽器で宮中祭礼楽に使われた。

世宗11年(1429年)から国内で作って使い始めた。 高さ30センチほどで、同じ大きさの鐘16個を厚さにより高低音を出せるように工夫して、木枠の上下二段に音の高さ順に8個ずつかけた。

木枠には彩色した龍や孔雀などが彫ってあり、犬の彫刻が台になって支えている。

「楽学軌範」によれば鐘を演奏する時は角槌(鹿などの動物の角で作られた金槌状の撥)で鐘の下正面を打つ。今は雅楽、俗楽を分けず片手で演奏する。

ウリナラのピョンジョンは、朴堧の主張に習い鐘の大きさにより音程を変えるのではなく、大きさは同じで鐘の厚みにより音程を変えたのが特徴だ。

南朝鮮では今日も文廟祭礼楽、宋廟祭礼楽、洛陽春、歩虚子などの演奏に使われている。

チュク

チュク

最後にチュクの紹介だ。

チュクは雅楽演奏で開始を知らせる打楽器だ。

四角い木箱の上に穴を開けてその穴に木棒をたて、上から下へと棒で箱底を打ち下ろす。

音楽の開始を知らせるチュクは音楽の終止を知らせる敔と呼ばれるトラの形をした楽器(背中に27個のノコギリ刃があり、これをキョン-竹の撥でなぞりながら音を出す)とパートナーになる。

チュクは、陽の象徴で東側に位置して表面は東側を象徴する青色で塗り、四面には山水画を描いた。

チュクを打つ垂直的な動作には地と空を開いて、音楽を始めるという意味がある。

箱は底面が狭くて上が若干広く、パンデという受け台にのせて打つ。

高麗時代、大晟樂の一つとして雅楽演奏に使われ、現在、宗廟祭礼楽と文廟祭礼楽で演奏される。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 12〉建敲(コンゴ)、踞虎(ロゴ)、晉鼓(チンゴ)、雷鼗(ルェド)

音楽の始まりと終わり伝える さまざまな装飾、足元には虎

ロゴ(左)とコンゴ(右)

ロゴ(左)とコンゴ(右)

80余種類とも言われる民族楽器の中で、打楽器は30余種類と大きな比重を占めている。打楽器は、古くから人々が手にし、心を表現してきた楽器である。世界の民族音楽はじめ、様々な音楽の発展と共に、時代を表す音楽に活力を与えてきた。

西洋と東洋とでは、形こそ違えど戦争の時には自軍の統率をとるためや軍楽隊として出陣し、兵士たちの士気を上げたり、情報伝達などにも欠かせない楽器として登場している。一方、平和のシンボルとしての存在も大きい。

そんな中、前回に続き、わが国の太鼓について紹介したいと思う。

コンゴは、朝鮮初期以後、朝会・宴会時に使われた打楽器の一つで、高さ4.15メートル、直径1.6メートル、長さ1.49メートルで最も大きくて派手だ。音楽の始まりと合奏の終わりに叩く。

構造は、足の部分に体を小さく丸めた虎が外側に向かって、十字に置かれ(踞虎)、その中心に朱柱を立て上に長い太鼓を横向きに置いた。太鼓の大きさは、直径1.2メートル、筒の長さ1.6メートル。内側・外側ともに赤い牡丹の花びらを描いて豪華に飾った。

ルェド(左)とチンゴ(右)

ルェド(左)とチンゴ(右)

太鼓の上には木で作った四角い2階建ての方蓋が乗り、その四隅に赤と黄色の象毛を付け、五色流蘇をぶら下げている龍頭竿もしくは龍竿を長く垂らした。

方蓋のてっぺんには、踊るように飛ぶシラサギが蓮の花の上に彫刻されている。

わが国では世宗の時に明国から受け入れたとされているが、その後1430年代に音楽家のパク・ヨンによって作られたとも言われている。

ロゴは、文廟、聖廟または宗廟(歴代の王の位牌を奉る王室の霊廟)の祭礼の時に使われた。

筒が長い太鼓を二つ、十字型に積み重ねて、枠組みにぶら下げた。筒は赤色に塗り、太鼓を叩く時にはチンゴと対を成して打つ。

太鼓の枠組みの上には月形を刻み白く塗り、左右に竜の頭を描いて、流蘇を長く伸ばした。

支えとなる一番下の部分には、コンゴ同様に体を小さく丸めた虎を十字に置いた。

宗廟祭禮楽

宗廟祭禮楽

チンゴは、主に国の祭事の時に使った大型の太鼓である。

面の直径は約105センチ、筒の長さは150センチ。

太鼓の中で最も大きく筒の周は赤く塗られている。筒に絵はない。

1116(睿宗11)年宋国から立鼓とともに輸入された。

ルェドは、雅楽に使われる太鼓で六面太鼓の一つだ。霊鼓、ロゴの系列の打楽器である。

ルェドとともに風雲雷雨祭・山川城隍祭などの祭礼儀式で軒架に編成される楽器で、音楽開始前に3度揺さぶって音を鳴らす。

ルェドは、小さい太鼓三つを長い木の棒に交差させてさし、前述の太鼓同様、十字の虎の台で支えた。

太鼓の両側には皮の紐がついており、太鼓を支える棒を横にして振れば、皮紐が面に触れて音がでる。これに続けて前回紹介したチュクを三回打ち、チンゴを一回打つことを1セットに、それを三回繰り返した後、合奏が始まる。

(メモ)軒架:宮中の儀式音楽と祭礼音楽演奏時の楽器配置で、石段の下の堂下に位置する楽隊を言う。雅楽がわが国に入ってきた後、この楽器配置法が使われてきた。その後、楽器編成規模に多くの変化が現れた。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 13〉法鼓(ポプコ)、雲板(ウンパン)、木魚(モゴ)、梵鐘(ポムジョン)

地、空、水の生き物を救う 仏教儀式に使われた楽器

*ポプコの舞(左)とポムペ(右)

*ポプコの舞(左)とポムペ(右)

今回は仏教音楽においてのウリナラの楽器に触れてみよう。

まずは朝鮮の音楽の根元とも言えるポムペ(梵唄)の話からはじめよう。「唄」という字は「唱」と同じ意味の梵語から作られた。他に梵音、梵声とも呼ばれ、これを歌うお坊さんを「魚丈」という。別名、魚山またはインドの音とも言うが ポムペはリズムと和声がない単旋律で、寺で法事の時使われる仏教儀式の音楽だ。

ポムペの歴史は、新羅の高僧・真鑑禅師から始まったと推定される。真鑑禅師は西暦804年唐に留学した後830年に帰国、その後玉泉寺で弟子らにポムペを教えたという(三国遺事では景徳王760年頃にはポムペ僧がいたことを暗示している)。

古代インドでは聖典ベーダーに曲を付けて詠ったことからバラモン教の音楽が発展したと言われている。また中国では三国時代に入ってきた康僧會がポムペの名手と言われた。「法苑珠林」36によれば、魏の曹植が山東省魚山で梵音を得しポムペを創作したと伝えられ、これが「聲明」というポムペの起源だとされる。

では、仏教儀式音楽に使われる仏具(楽器)を紹介してみよう。

ウンパン(左上)、モゴ(右上)、ポムジョン(下)

ウンパン(左上)、モゴ(右上)、ポムジョン(下)

佛殿四物といわれる、ポプコ・ウンパン・モゴ・ポムジョンの順で挙げてみる。

ポプコは弘鼓ともいい、ただのプクとも言う。よく乾燥した木で胴を作り両面は牛革で覆う。これを使って踊るのが仏教儀式舞踊の一つ「ポプコの舞」だ。太鼓踊りの一種で作法の一つとされている。

また無律打楽器の一つバラ(真鍮で作られた金属楽器)を使った仏教儀式舞踊に「バラの舞」がある。踊る時、両手にバラを持って舞う。仏法を守護する意味を持つ踊りで、儀式道場を浄化して神聖な場所に清め、呪術的な意味も持つ。

次にウンパンとモゴを紹介する。

ウンパンは大板とも言う。雲形の薄い青銅または鉄製平板で、叩くと綺麗でうるおった音がする仏教工芸品だ。板の上に菩薩像や真言を刻んだり、端に昇天する龍や雲、月を刻んだ。上側に穴が二つあけられていて、ぶら下げられる。

モゴは木魚鼓、魚鼓、魚板とも言う。この法具は木を魚の形に作ってぶら下げ、佛事の時に叩く。

最後にポムジョンを紹介しよう。寺で人々を集めたり、朝、夕の時間を伝えるために使う鐘で、鯨鐘、釣鐘、撞鐘とも言う。インドの稚と中国の銅鐘を土台に作られ朝鮮を経て日本に伝えられた。

佛殿四物はそれぞれ、地の上を歩く革をまとった物、空、水の中で生きる物を救い、悪から人々を助けるとの意味を持つ。

皆さんがよく観るサムルノリは、農楽器のケンガリ、チン、チャンゴ、プクで演奏する音楽。四物というのは本来、前述した仏教儀式に使われた法鼓、雲板、木魚、梵鐘を示す言葉であった。それが、ポムペで使われる太平簫、チン、プク、木鐸に変わり、ケンガリ、チン、チャンゴ、プクとなって今に至る。これらは星・人・月・太陽を象徴し、その音は稲妻、雨、雲、風の音に比喩したりするが、これを「雲雨風雷」という。

また金属楽器は空、革楽器は土地に比喩したりもする。

〈民族楽器のルーツをたどる・ウリナラの楽器 14〉素材や分類

朝鮮で生まれた「郷部」の楽器

セナプ(朝鮮、左上)、チャルメラ(日本、右上)、スオナ(中国、左下)、ズルナ(アラブ諸国、右下)

セナプ(朝鮮、左上)、チャルメラ(日本、右上)、スオナ(中国、左下)、ズルナ(アラブ諸国、右下)

昨年2月にスタートした本連載がいよいよ最終回を迎えることになった。1年半に及ぶ期間、愛読してくださった読者の方々に深く感謝する。

最終回では、民族楽器の素材や分類をまとめてみよう。

本シリーズを通して読者のみなさんは、ウリナラの楽器の歴史とシルクロードとの関わりを少し感じていただけたことと思う。

シルクロードの音楽文化の源は、古代オリエントのメソポタミアにさかのぼる。世界最古の都市文明といわれるシュメールの初期王朝時代(紀元前2900年~2400年頃)にはかなり高度な音楽文化が存在したようだ。変革がナイル川やインダス川、やや遅れて黄河流域にも起こり、インドと中国の文明は独自に発展、メソポタミアおよびエジプトの文明はその後、中近東や地中海文明の基礎となり、ギリシャ・ヘブライ文化からは初期キリスト教音楽と美術が生まれた(拓植元一著「シルクロードの響き」)。

古代メソポタミアの楽器は、遺物や壁画などに描かれた演奏風景および楽器をみるとわかるように多種多様だ。シンバルや両面太鼓、弓形ハープ、土笛や葦笛、トランペットなど今に通ずる。

牛頭のある女王のリラ(イラク、紀元前2600~紀元前2400年)

牛頭のある女王のリラ(イラク、紀元前2600~紀元前2400年)

楽器の素材の特徴としては、弦鳴楽器の共鳴胴に桑材が使われ、羊腸弦と並んで絹弦が用いられた。また、気鳴楽器には葦管を利用したものが圧倒的に多い。

次は楽器の分類について説明しよう。

西洋音楽は古来「弦楽器」「管楽器」「打楽器」と大きく三つに分けられる。近代では鍵盤楽器(キーボード)というカテゴリーを独立させている。

20世紀のはじめにドイツでは古代インドの四分類法から伝統楽器は発音原理に基づいて「体鳴楽器」(金属・石・木・竹などに衝撃を与えて鳴らす鐘やシンバルマラカスなど)、「膜鳴楽器」(皮膜を張ってそれに衝撃を与えて鳴らす太鼓や鼓など)、「弦鳴楽器」(弦に衝撃を与えて鳴らす弦一般)、「気鳴楽器」(空気の渦によって生じる振動を利用して音をだす管楽器やハーモニカなど)と大きく分類される(※シンセサイザーなどは「電鳴楽器・電子楽器」と呼ぶ)。

日本の雅楽器の分類は「吹きもの」「弾きもの」「打ちもの」で、これらは奏法による三分類法である。

さて、朝鮮の分類法は大きく4つに分けられる。

楽器の材料による分類(金・石・絲・竹・籠・土・革・木の8種類)、次に音楽の系統による分類で雅部(中国の祭礼音楽)、唐部(唐国の楽器のみならず中国中世の楽器や西域地方で発生して中国を経て朝鮮に根づいた楽器。ウォルグム、チャンゴ、ヘグム、セナプなど)、郷部(朝鮮で発生した全ての楽器。ピョンジョン、チョッテ、カヤグム、コムンゴなど)。

ベゼクリク石窟壁画・衆人奏楽図(中国、10~11世紀)

ベゼクリク石窟壁画・衆人奏楽図(中国、10~11世紀)

この二種類が伝統的な分類法で、次の二種類は先にも出てきた西洋音楽分類法、そして古代インドの四分類法の発音原理に基づく分類法である(全世界的に通用している方法)。

文化は歴史とともに人々が行きかう中で伝達され、それが地域や風土によって受容、発展していく。楽器もその音色や形、素材や分類をみてわかるように互いに影響しあいながら発展してきた。それは朝鮮の楽器も例外ではない。長い長い歴史の中で育まれ守られてきた民族楽器は、これからも継承、発展していくに違いない。日本に住む私たちにとっては、相通ずる人々が個人個人の自覚の中で守るべき大切な自国の文化である。

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