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ウリマルを考える⑦解放後、朝鮮における言語政策(1) /朴宰秀
ウリマルを考える⑦解放後、朝鮮における言語政策(1) /朴宰秀
《朝鮮新報》2022.12.15
過去、日帝によって搾取と圧迫、無知と蒙昧の中で悲惨な生活を強いられてきた朝鮮人民は、解放後、奪われた言葉と文字を取り戻すため、正規の学校でのウリマル教育と文盲退治事業、出版物における漢字の廃止と語彙整理事業を推進しました。
ウリマルを考えるうえで、解放後の朝鮮におけるこのような言語政策を見ることは大変有意義なことだと思われます。(※「文盲」という言葉は現在では差別語になりますが、ここでは当時使用されていた通り引用します)
朝鮮における「文盲退治事業」
日帝の民族文化抹殺政策と民族愚昧化政策によって解放直後、北半部には230余万人(12~50歳)のハングルの読み書きができない非識字者がいました。このことは、解放後の朝鮮の社会改革と国家建設を推進するうえで大きな障害でした。科学技術や知識の習得には文字の習得が必要だからです。
朝鮮では解放直後、初等教育を実施する一方、230余万人の非識字者をなくす問題を民族の隆盛繁栄、国家建設の運命と関連する重要な政策課題として提起し、文盲退治事業を大々的に推進する対策を立てます。
北朝鮮臨時人民委員会(1946.2~1947.2)は文盲退治事業を推進するために、北朝鮮行政10局の一つである教育局に成人教育部を設け、傘下の各人民委員会教育部に文盲退治事業を専門に担当する部署を置きました。北朝鮮臨時人民委員会は、全国で自然発生的に行われていた「成人学校」や「ハングル学校」をより効果的に推進するため文盲退治事業に対する国家の統一的な指導体系を確立します。こうすることで文盲退治事業に対する国家の決定や指示、施策が末端にまで迅速かつ正確に伝えられ、全国で文盲退治事業が統一的に進められるようにしました。
朝鮮で文盲退治事業が本格的に進められたのは1946年12月から1949年3月までの3年間で、この期間に文盲退治事業は全群衆的大衆運動として強力に推進されます。
北朝鮮臨時人民委員会は決定第113号で「冬期農村文盲退治に関する北朝鮮臨時人民委員会決定書」(1946.11.25)を採択します。この決定書により1946年12月1日から1947年3月31日までの4カ月間、主に農村の農民と女性を対象に冬期農村文盲退治運動を展開します。そのために北半部の農村のすべての里、洞に「文盲退治班」を設置し、非識字者はこれに義務的に網羅され、毎日2時間以上の教育を受けました。
1947年11月には北朝鮮人民委員会第52回会議で過去1年間の文盲退治事業を総括し、この事業を1949年3月末までに終えることを決定します。これを推進するため北朝鮮人民委員会決定第83号で「文盲退治運動推進に関する決定書」を採択し、1947年12月1日から1948年3月31日までと1948年12月1日から1949年3月31日まで2回にわたり「冬期文盲退治突撃運動」を大々的に展開することにします。この決定を遂行するため地方の人民委員会は、講師の選抜と養成を進める一方、教科書、ノート、鉛筆などの学用品と、教室で使う電球、暖房などの学習環境を整えました。
北朝鮮では文盲退治事業を国家的な行政機構体系だけではなく、1946年12月に非常設の識字指導機関として「文盲退治指導委員会」と「文盲退治検閲委員会」を組織します。「文盲退治指導委員会」は、主に電球や白墨、教具備品などの物資の調達と学校の設立や運営に関する問題を担当しました。「文盲退治検閲委員会」は、「文盲退治指導委員会」が文盲退治事業に対する政府の決定と指示を正しく執行しているかどうかを調査し対策を立てることや卒業試験の実施・評価などを担当しました。
文盲退治事業を展開するには対象になる非識字者の基準を設定し、それを基に対象者を調査する必要がありました。朝鮮では、その基準をハングルの読み書きと簡単な計算ができるかどうかと定めました。漢字は除外しました。これは漢字の使用を廃止することを前提にしていたからです。
次に対象者の年齢を12歳から50歳と規定しました。これは身体や機能の発達、教育学的な問題を考慮して決めました。
このように基準を決めた後、対象者の調査を里、洞で家庭訪問の形で進めました。この結果、230余万人の非識字者がいることが確認され、その人たちを対象に文盲退治事業が展開されることになります。
また、講師の問題を解決するための国家的な講師養成体系を立て、「社会教育指導員養成所」を設置する措置を取りました。
1946年5月に開校した「社会教育指導員養成所」は、文盲退治指導事業に従事する教員を養成する目的で一つの郡に1カ所ずつ設置し、ここで1946年10月までに1万7000人余りの教員を養成しました。教員不足を補うために大学生や中学生も講師として動員し、講師の問題を解決しました。
一方、文字を習得した人たちのために、成人学校(2年制)、成人中学校(3年制)を設置してより高い水準の教育を与えました。
1948年からは人民学校卒業程度の知識水準に引き上げるため初級班·中級班·上級班に分けた速成成人学校(各4カ月の1年制)を設置し、義務的に教育しました。また、一度学んだ文字を忘れる人が出てくるのを防ぐための措置も取られます。
このような強力な措置を通じて、朝鮮では1949年3月末に非識字者を完全に一掃することに成功したのです。
文盲退治事業にまつわるエピソード
文盲退治事業を推進するため、金日成主席が1946年2月北朝鮮臨時人民委員会第1回会議の第1議案に鉛筆の生産問題を討議し、対策を立てたのは有名な話です。これにより鉛筆を生産する民間企業と技術者が全国的に動員され国家的な支援の中、1946年末には500万本の鉛筆が生産されました。
また、金日成主席の発起で全国で繰り広げられた「李渓山運動」も、文盲退治事業の成功に大きく貢献しました。
1947年8月のある日のことです。金日成主席は、自ら生産した小麦とジャガイモを用意して江原道から訪ねてきた李渓山農民に会います。 彼女が文字を全く知らないことを知った主席は、彼女に年末までにハングルを習得して自筆で自分に手紙を書くよう課題を与えます。彼女はハングルを熱心に学び、3カ月後に主席に手紙を書きました。主席は、この農村女性の努力を高く評価し、文盲退治事業を全国的な大衆運動として力強く展開するための「李渓山運動」を大々的に繰り広げたのです。
解放直後の朝鮮での文盲退治事業の成功は、朝鮮におけるハングルの普及を確固たるものにし、ハングルの発展の歴史に輝かしい足跡を残しました。
総聯は、金正恩総書記が総聯第25回全体大会参加者たちに送った書簡貫徹のためのウリマル運動を、全組織的・全同胞的運動として推進するうえで、この経験を真摯に学ぶ必要があると思います。
【プロフィール】1970年、朝鮮大学校文学部卒業。同校で48年間勤務。文学部及び文学歴史学部学部長、朝鮮語研究所所長を務める。東京外国語大学、関東学院大学、京都造形芸術大学で非常勤講師を歴任。現ハングル能力検定協会相談役。朝鮮民主主義人民共和国教授、言語学博士。