在日本朝鮮文学芸術家同盟

〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 15〉

教員の祖国講習に参加する(교원조국강습에 참가하다)

《朝鮮新報》2021.07.18

1978年7月、初・中・高・大学の教員30余名で構成された第6次教育者代表団の一員として、生まれて初めて祖国の地を踏んだ。

滞在中、代表団は朝鮮民主主義人民共和国創建30周年記念の各種行事に参加する幸運に恵まれた。

最大の幸運は、9.9節記念行事や第8回全国教育者大会で、金日成主席を直接9回もお目にかかれたことだ。

文学部から祖国を訪問した教員4名は、訪問中に金亨稷師範大学の윤상현(ユン・サンヒョン)先生から「読み方の基礎と教授方法」を教材に、平壌文化語の単語と文の発音、詩や小説、説明文の読み方と教え方を学んだ。この時に学んだことは、その後の大学での授業で大いに役立った。

윤상현先生とは翌年の1979年3月5~7日、新潟港に停泊している万景峰号でのウリマル講習会で再会することができた。そこで、祖国で受けた講義を中・高の国語担当の先生たちと一緒に、復習を兼ねてもう一度学んだ。

私はこの時、先生に文学部4年生の女学生が朗読した詩「날이 밝는다(ナリ パンヌンダ・日が昇る)」を録音したカセットテープを持っていった。先生の評価を聞こうと思ったからだ。

次の日、先生に意見を聞くと「詩の朗読はとても良い。ただ、裏面の録音内容は日本語が混じっていて、半分ほどしか理解できなかった」と言う。裏面にも録音されていたことは知らなかったが、日本語を使っているという指摘に内心驚いた。当時、ウリマル運動で模範を示していた文学部の学生が、日本語を使っているとは、にわかには信じられなかった。ホテルに戻って聞いてみた。寄宿舎でトンムの誕生会をしている様子を録音したものだった。最後まで聞いてみたが、日本語は一言もなかった。

次の日、先生にそのことを伝えて、どうしてそのように聞こえたのか意見交換をした。日本語の影響を受けた発音や抑揚、言い回しが日本語に聞こえたということで一致した。日本語の影響を受けた学生たちの発音や抑揚、表現を克服する必要性を強く感じた瞬間だった。この課題に本格的に挑戦するのは、それから10年後のことである。

半年後の夏に、ウリナラを再び訪問する機会が訪れた。

大学の教育の質を高めるための対策の一環として、創立以来初めてとなる教授法担当教員の祖国講習に参加することになったのだ。

私が、初めて「国語教授法」の授業を担当したのは1977年4月のことである。それまで「国語教授法」の授業を担当されていた先生が急に他校に移動されたので、急遽4月から私が受け持つことになったのだ。

学生時代に学んだ「国語教授法」は教科書もなく、授業も体系的な内容ではなかった。そのため、引き継ぎはしたものの、何をどう教えればいいのか暗中模索の日々が続いていた。そんな時に、ウリナラで国語教授法を学べる機会を得たのだ。日増しに高まる期待感で胸の高鳴りを抑えることができなかった。

祖国での2カ月間、金亨稷師範大学の講座長렴주률(リョム・ジュユル)先生から「言語表現の分析と文学作品の種子、主題、思想の分析」を教材に1対1で毎日4コマの講義を受けた。

直喩、隠喩、換喩、擬人法、誇張法などの語彙表現の教授法から始まり、反復法、列挙法、対句法、対照法、転倒法、省略法などの文章表現、そして、文学作品の主題や思想の分析の仕方、教え方について指導を受けた。

初めて体系的に学ぶ教授法の内容に感動を覚えながら、無我夢中で学んだ日々が懐かしく思い出される。

数年後、この時の講義内容が共和国で教科書として出版された。朝大でも「国語教授法」の教科書として採用し、20年近く使用した。

1978年10月1日、平壌体育館で2万人の教育者が集う第8回全国教育者大会に参加し、金日成主席の演説「社会主義教育テーゼを徹底的に貫徹し、教育事業で新しい転換を起こそう」を直接拝聴することができた。

金日成主席は、2時間余りの演説を原稿に目を通すこともなく、あるときは広い演壇をゆっくり歩かれながら話され、あるときは地方の党幹部を指名され「同志は、月に何回学校に出向いて指導しているのか」と質問される。まるで、参加者ひとりひとりとひざを交えて話し合われておられるような錯覚を覚えた。

あとで伝え聞いた話だが、10月2日に元山を出港しないと私たち代表団が日本に再入国できないということで、主席が演説を1日早めてくださったということだった。その配慮に目頭が熱くなった覚えがある。

私たちは、全国教育者大会の最終日を待たずに平壌を後にした。

大会での金日成主席の演説は、私の心のひだにまで魂を吹き込んでくれた。

初めての祖国訪問は、私の人生観、教育観に精神的支柱を植え付けてくれた。生涯祖国と共に歩む覚悟と在日同胞社会の未来のために、在日の子どもたちを立派に育てる朝鮮語教育者になるという私の強い決意は、こうして祖国の地に深く根をおろした。

「教員は、祖国の未来を創るうえで、根となり肥やしとならなければならない」ということばが、今日も私を突き動かす。

(朴点水 朝鮮語研究者)

뿌리の語源

뿌리は、草木の「根」を意味する言葉です。草木の根は、その本体である幹や茎から伸び出た部分で、これを朝鮮語で表すと불어난(増えた)部分だということになります。根は切ってもまたしばらくすると出てきます。これを朝鮮人は、根というのは草木の幹や茎から余分に増えたものと考えました。中世語では根を불휘と言っていました。これは불이をそのように発音し、表記したものです。불이の本来の意味は、幹や茎から불어난것(増えたもの)ということです。불어나다(増える)の意味をもつ불다の불に物を表す이が付いてできた「増殖」の意味をもつ불이という言葉が、後に濃音化されて뿌리になりました。ウシやヤギ、シカの角を朝鮮語で뿔と言いますが、これも朝鮮人がウシやヤギ、シカの体から別途に出てきて増えたものと考えたのです。뿌리が草木の幹や茎から増えたものだとすれば、뿔は動物の頭に増えたものなのです。뿔も初めは불でしたが、これも後に発音が濃音化されて뿔になりました。

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