〈ウリマルの泉(우리 말의 샘) 20〉

学生祖国訪問団を引率する①(학생조국방문단을 인솔하다)

《朝鮮新報》2021.12.26

朝大生が本格的に祖国を訪問するようになったのは1980年からである。それから10年間、朝大生は毎年1カ月間、平壌をはじめ白頭山、金剛山、開城、板門店などを参観・見学しながら祖国の慈愛深い愛を胸に刻んだ。

1990年に入ると、世代交代など在日朝鮮人社会の変化により、次世代の人材の育成が強く求められた。

金正日総書記は、時代の要求に対する深い洞察力で1990年4月に愛国運動のバトンを引き継ぐ次世代の若い人材を育てなければならないと教示された。その教えに沿って1990年から、それまでの参観・見学中心の祖国訪問から専門知識や技能を習得する講習中心の祖国訪問へと転換された。

私は1990年以降、定年退職まで4回(1990年、1994年、1998年、2000年)にわたり文学部の学生を引率して祖国を訪問した。

1990年の祖国訪問は講習1年目で重要な年であった。伝統を作るには初めが大切だという友人の助言もあって、最初は自分が引率すると心に決めていた。そのため私は、祖国を訪問する4年生の担任を志願した。担任になった私は6月下旬から3カ月間、副担任の柳昌淳先生(現朝大教務部長)と文学部の学生を率いて祖国を訪問した。

解放山ホテルに滞在しながら講習を受けた。講習は、金亨稷師範大学の김영일(キムヨンイル)先生が講座長を務める担当講座が受け持った。

私は、すべての授業に参加することにした。参加できないときは副担任に頼んだ。講習の成果は講習内容にあると考えたからだ。講習だけではない。交流会、参観や見学にも気を使った。建築物や自然を見ても、それを通して透けて見える人々の姿や心を感じとれるよう気を配った。祖国を知るにはその地に生きる人間を知ることが一番だと思ったからだ。

聴講中でのことだ。私は金亨稷師範大学の강선규(カンソンギュ)先生の3日間の創作指導の講義を聞いて胸の高鳴りを覚えた。講義を聞く前まで、とてもだが自分には詩を書く能力なんかないと思っていた。それが講義を聞いていると、ひょっとして書けるのではないかと思えた。実際、白頭山で人生2回目の詩を書くことができた。こんな体験もあって次回から創作指導は강선규先生に任せたいと思った。

1990年の講習では、教材の朗読や話術の専門的な実技指導がなかった。単語の発音や教材の音読の指導はあったが数回指導して終わった。朝大での指導とさほど変わらず失望した。

祖国講習は、大きな成果をあげたが問題点もあった。講義内容には朝大で十分解決できるものもあった。副担任と祖国でしか解決できない講義内容は何かについて意見を交わした。結果、次回から教材の朗読や話術、創作という表現能力を高める内容を強化すべきだという結論に至った。そのことを担当講座とも協議し、次回から創作指導は강선규先生に担当してもらうことにした。平壌文化語による話術の指導は日本でできない。そこで私は、次回から国立演劇団話術指導員の박경혜(パクキョンヘ)先生の指導を受けられるよう対策を立てた。こうして1991年から20数年間、学生たちは박경혜先生と강선규先生の指導を受けることになった。

4年後の1994年5月中旬から孟福実先生と共に、学生の祖国訪問団を引率した。

出発前に副学長から、今回はいろいろ都合があり1カ月で帰って来るようにと言われた。

訪問期間、大同江ホテルに滞在した。1カ月の滞在ということで密度の濃い講義内容になった。中でも、話術と創作の指導は想像以上だった。先生方はホテルに寝泊まりしながら夜中まで指導する熱の入れようだ。お蔭で学生たちは、話術と創作の指導を一日に何回も受けた。

話術の指導は、教科書の音読をはじめ、早口ことば、叙事詩「白頭山」の合唱詩、寸劇、漫才、お話など多岐にわたった。

あっという間に3週間が過ぎようとした頃、学生たちから「もっと学びたいので滞在期間を延ばしてもらえませんか」という要望があった。どうすべきか悩んだ末、平壌で療養中の韓徳銖議長をお見舞いし、そこでお願いすることにした。

6月19日、福井県本部の委員長と二人で韓徳銖議長をお見舞いした。1時間ほどの談話が終わり昼食を取ることになったその時、「議長先生、一つお願いがあります」と切り出した。「何だね」。「文学部の学生たちが、もう少し祖国で学びたいと言っています。2~3週間ほど滞在期間を延長してもらえるよう便宜を図ってもらえないでしょうか」。すると議長は「総聯の議長だからと、できることもあればできないこともある」とおっしゃると無言で食堂に向かわれた。駄目かなと思っていた2日後、担当部署から2週間滞在期間が延長されたという連絡が入った。学生たちは抱き合って喜んだ。その姿が今も目に浮かぶ。

祖国の先生の指導のお蔭で学生たちの話術公演は好評を博した。

시작이 절반(シジャギチョルバン)(始まりが半分=思い立ったが吉日/物事は始めたら半分は成し遂げたことになる)ということわざがある。強い思いが一歩を踏み出す力になる。思いを託して行動すれば道は開く。

(朴点水 朝鮮語研究者)

기둥の語源

기둥とは柱のことです。まっすぐに立てた建物の上部の重みを支える材で、나라의 기둥 (国の柱),  기둥선수(中心選手) のように比喩的に国や集団全体を支える人や骨幹を表したりもします。この言葉の最初の形は긷でした。15世紀の文献では기둥のことをすべて긷と言っており구리기둥(銅柱)を구리긷、「主な根」を긷불휘と言っています。긷に接尾辞옹がついて긷옹→기동→기둥と変化しました。漢字学習書の훈몽자회(訓蒙字会1527年)でも기둥주字を기동주と言っています。기둥は기동の오が우に変化したものです。ではなぜ긷が기동、기둥のように2音節に変化したのでしょうか。歴史的に見ると古い言葉ほど文字数の少ない単語が多く見られます。1音節の単語が多いと同音異義語が多くなり、意味が区別しづらくなります。これを音節数を増やすことで避けようとしたのです。例えば、마당(庭)の古語は맏でしたが、これに接尾辞の앙をつけて마당になりました。

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