〈戦時文学から見る朝鮮戦争 3〉戦争第一段階の文学(2)

〈戦時文学から見る朝鮮戦争 3〉戦争第一段階の文学(2)

《朝鮮新報》2023年05月25日

真の平和と統一を勝ち取るため

前回に引き続き祖国解放戦争第一段階に創作された小説から、今回は人民の姿がいかに描かれたのかに注目する。

アボジの叫び

「解放地区実話」として掲載された韓鳳植の「アボジ(父)」(労働新聞1950.8.13-15)で描かれた主人公は南朝鮮に住んでいる平凡なアボジである。アボジの息子・娘は祖国統一のために、49年からパルチザン活動に身を投じていた。

実際に、48年から南朝鮮では単独選挙・単独政府に対する激しい抵抗運動が起こっていた。済州島4.3人民蜂起や、済州島鎮圧命令に抵抗した軍人の蜂起(麗水・順天)が有名である。かれらは智異山の山岳地帯に入り、ゲリラ戦で抵抗を続けた。その他の左翼勢力も、五台山、湖南、太白山、嶺南などに遊撃戦区を形成(강만길『20세기 우리 역사』)。この事実に照らし合わせると、「アボジ」に登場する息子・娘は李承晩政権に反対して山で戦っていたことがわかる。

だが、抵抗の度合いが高ければ高いほど弾圧も激しいものとなる。息子・娘が「アカ」であるという「罪」によって逮捕されたアボジは、家を焼かれ、片目をえぐりとられてしまう。釈放後、越北を決意したアボジは、その道中、若いパルチザン3人の公開処刑に偶然居合わせる。次の瞬間、アボジの片目が捉えたのは娘の姿であった。愛する可愛い娘は、銃殺され、まだうごめくその体は長剣でむやみに突き刺され、そして切断された。気絶したアボジが目覚めると、切り落とされた頭だけが無残にも「陳列」されていた。「自身の死よりずっと恐ろしく、自身の目玉を抜き取られた時よりずっと辛く、骨身に染みる無念な不幸」(文中より)であった。3人の頭を埋葬し、胴体を探していたアボジは死体盗取の罪で拘禁される。

そして半年後、監獄で人民軍によるソウル解放を迎えた。自由の身となったアボジは支援物資を運ぶため人民軍と南進する。故郷の三陟で「国防軍」に偽装し工作活動を行っている息子と再会すると、娘の遺骨を渡しながらアボジは叫ぶ。「…前線にいきなさい。敵がすべて海の中に倒れた後に、またみなで故郷に帰ろう! 何よりも大急ぎで、敵を海の中にぶちこもう!」……

このような悲劇が、このアボジ1人だけのものであったとどうして言えようか。前回紹介した「最後の血一滴まで」に登場する東根は、49年に「国防軍」にアボジを拉致され、噂で虐殺されたと聞いていた。東根は、アボジが生きていることを信じ再会を望んで戦っていた。そして、東根が療養する野戦病院には、「李承晩徒党の生き地獄」から解放してくれた人民軍を見ようと新解放地区の人民が押し寄せていた。

このように、人民の生活は戦争が始まる前からとっくに破綻していた。朝鮮戦争研究において名高い米国の歴史学者ブルース・カミングスは戦争が解放直後からはじまっていたと論じたが、まさに開戦当初の小説にも、40年代後半の悲惨な状況が描写されていた。

工場復旧という名の戦闘

都市、農村、工場の死守を呼びかける宣伝画(労働新聞1950.8.1、閲覧はいずれも同志社コリア研究センター「コリア文献データベース」)

戦争初期の人民の戦いを描いた作品に、リュ・グンスンの「灰燼の中で」がある。創作時期は50年10月とされているが、8・15までの復旧活動と戦時生産を描いているため第一段階の文学として紹介する。

小説は爆撃によって火の海と化した工場一帯の描写からはじまる。方角もわからぬまま炎の中を走る尹鳳洙(音訳)は、労働者であり党員である。鳳洙は党組織の指示によって被害調査班の責任者となる。調査中、爆撃の犠牲となった3人の党員の死体を見つけた鳳洙は、かれらが機械の重要な部品を守ろうとしたことに気づく。それは敗戦時、工場を破壊しようとする日本人から守った部品であった。「ああ! 機械は生きて人は死んでしまったのである」…報復を心に誓った鳳洙は、日本人支配者から守った工場を今度は米帝から守り、復旧させることこそが銃後の「戦闘」であると強く信じた。

鳳洙の一人息子は爆撃で死んでしまった。自ら考案したペダル式制動機の製作場も燃え果てた。悲しみをこらえ、憎悪で心を燃やし、昼夜問わず戦う鳳洙。かれを見て心を痛める人物がいた。爆撃を恐れ家族で谷に逃げ込んだ権という労働者である。解放後に社宅や米を与えてくれたのは工場ではないか。機械と命を引き換えにした党員や、家族が犠牲になっても復旧に献身する党員に、自分はどのように顔向けできようか…「この人たちの中にいてこそ自分は価値ある人間になれるのだ!」—やがて権は復旧作業に勤しむようになった。

爆撃された都市の一部と復旧作業に乗り出す人民(労働新聞1950.8.10)

鳳洙や権のような人物は実在したのであろうか? 大爆撃に見舞われる中、鳳洙のような人間が理想として求められていたのは間違いない。他の小説にはあまり描かれないが、権のように避難した者もいたであろう。筆者は、権の成長に注目したい。米軍の爆撃による人的・物的被害で絶望の淵に立たされた人民が無数にいたこと、そして、その絶望の淵からどうにか這い上がり、果敢に戦う精神——それは、平和な日常を自らの手で守る戦いの——が培われていったこと。戦火の中で、人々は強くなり、よりいっそう結束したのである。

2回にかけて戦争第一段階の戦時文学を紹介した。金史良の従軍記や李箕永の政論、「最後の血一滴まで」などに描かれた人民軍戦士の戦いや、今回紹介した人民の戦いを通じて見えてくるものがある。それは、戦争前の5年間にも真の平和は訪れていなかったということである。特に南朝鮮における米国と李承晩政権の支配や弾圧に対して朝鮮の文学は批判的に強く訴えている。長きにわたる植民地支配から解放を迎えたが大国の利害から北南は分断され、朝鮮人による朝鮮人のための統一独立国家の建設はとてつもない困難にぶちあたった。そのような困難を取り払い真の平和と統一を勝ち取るために朝鮮人民は戦ってみせる—。そのような気概が、70年以上たった現在においても作品から滲み出ている気がしてならない。

次回は、戦争第二・三段階の戦時文学をみることにしよう。

(洪潤実・朝鮮大学校文学歴史学部助教)

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