〈民族教育と朝鮮舞踊 6〉舞踊教育者として

《朝鮮新報》2021.06.26

『朝鮮児童舞踊基本』『学生少年舞踊基本』の普及

『朝鮮児童舞踊基本』(左)と『学生少年舞踊基本』

1975年4月に朝鮮大学校文学部を卒業した私は、師範教育学部の助手として社会生活の第一歩を踏み出した。教員志望ではなかったが、文学部卒業生の大半は中・高級部の朝鮮語科目を教える教師として各地に配属されていた。

当時、朝大の師範教育学部の師範科(2年制)には「児童舞踊」の科目があり、また朝鮮語を教える教員も必要とされていた。今では学部卒業後、すぐ教壇には立てないのだが、当時は教員が足りず、私は着任した4月から朝鮮語の授業と師範科2年生の副担任、金成愛先生の後任として舞踊の授業と舞踊部の指導を受け持つことになった。

朝鮮舞踊は大好きで、中学から大学まで部活もして来たが、朝鮮語はともかく、まさか舞踊を教える教員、それも大学で授業をすることになろうとは考えてもみなかった。

私の心は(舞踊をするためではなく、朝鮮文学を勉強したくて朝大に来たのに…)という思いでいっぱいだった。背も低く、舞踊の素質があるわけでもなく、専門的に習ったことも、教えられる技量もなかった。

担当クラスには私より年上の給費生も二人いて、とても奇妙な関係となった。それでも当時の学生たちが、大人の対応で私を受け入れてくれたのが幸いだった。とにかく授業をしなければならないので、教授法などを再度勉強し、師範教育学部の諸先生方に学びながら6月には「朝鮮語」の授業を始めた。「児童舞踊」の授業も、非常勤講師となられた金先生の補助を受けながら必死になって行った。

1975年の夏、全国初・中級学校舞踊教員の講習会が東西の2カ所(朝大、西播初中)に分かれて行われた。祖国の『学生少年舞踊基本』(パク・スンドク、キム・ヘギョン著、社労青出版社)を伝習するのが目的であった。著者の一人であるパク・スンドク氏は、崔承喜舞踊研究所の出身で、後に平壌学生少年宮殿の舞踊指導をしながら崔承喜著『朝鮮児童舞踊基本』(1963年)を『学生少年舞踊基本』(1971年)に改訂した。

『朝鮮児童舞踊基本』(20動作)は、舞踊芸術の担い手となる児童(小・中学生)たちの情操を育み、均整のとれた身体能力を備えるための舞踊基本として創られた。それを基に創作された『学生少年舞踊基本』(予備訓練と14動作)は、童心を活かしながらも舞踊をより現代的に継承発展させたものであった。

1969年夏、東京中高での舞踊教員講習会では、『朝鮮児童舞踊基本』(崔承喜)の伝習が任善喜先生を中心に行われた。任先生は教本を朝大の研究会で解説されたり、芸術科(舞踊専攻)の学生に説かせたりもしたとされる。

その後、児童基本動作の講習会を全国の初・中級部舞踊教員を対象として、1週間近く合宿をしながら大々的に行ったのは、1975年が初めてだった。

『朝鮮民族舞踊基本』(崔承喜)は国家的なプロジェクトとして、映画フィルムでも保存・普及されたが、『朝鮮児童舞踊基本』や『学生少年舞踊基本』の映像は無かった。そのため、祖国から送られて来た教本の一言一句を読み解きながら、一つひとつ舞踊動作に起こしていかなければならない。数人の舞踊教員たちで構成された研究グループは、各自仕事を終えてから夜遅くに集まって教本を解いていくという、気の遠くなるような作業を行って講習に備えた。それでも、研究グループの熱意は冷めることはなかった。

東日本は東京中高の金英淑先生と私、西日本は金成愛先生と東京中高の助手が講師だった。真夏の朝大舞踊室(当時はプレハブの2階)で、一日7~8時間、汗だくになりながら基本動作を踊った。初・中級部には、専門的に舞踊を教えられる教員がまだ少なく、年配の講師もいたが、この講習を機に全国の初・中級部の舞踊部ではこの基本動作を取り入れるようになった。

1978年、ピョンヤン学生少年芸術団の日本公演が初めて行われた。私たちは芸術団の子供たちに『学生少年舞踊基本』を踊ってもらい、撮影した映像を普及させようと試みた。公演とリハーサルの間に、舞台上で舞踊班全員が基本動作を踊ってくれた。私たちが必死で解読した動作は、ほとんど合っていたのでホッとした。子どもたちはとても上手であったが、それぞれ少しずつ動作が違ったので、映像を普及させることができなかった。

撮影した基本動作のビデオの一場面

そして1983年の第2次ピョンヤン学生少年芸術団来日時には、基本動作を最も正確に踊れるという子(チョ・ソンラン)を対象にビデオを撮った。NHKホールでの公演の合間に地下の控え室で撮影したのだが、伴奏音楽を準備できず、芸術団童話舞踊の按舞家であるチェ・ヨンシル先生のプㇰ(太鼓)に合わせての録画であった。

映像は撮れたが伴奏音楽がない、そこで私は、基本動作の音楽を作ることにした。

その年の冬、朝大の音楽室でピアノ(盧相鉉)、チャンゴ(河祥萬)、フルート(崔振郁))、ナレーション(朴貞順)のメンバーで全15曲を演奏・録音し、それを日本各地の初中級学校に普及させた。寒い冬だったためストーブを使ったのだが、狭い部屋が暖まるとチャンゴの皮がピンと張りすぎて音が高くなるなど苦労もあった。

以後、この映像と音楽テープが初・中級部の朝鮮舞踊の基本動作として20余年間使われ続けた。駆け出しの私は、必死で舞踊教育者としての道を歩み始めていた。

朴貞順(朝鮮大学校舞踊教育研究室室長)

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