振り返る在日朝鮮美術家の生/朝大で在日朝鮮人の美術史に関して講演

振り返る在日朝鮮美術家の生/朝大で在日朝鮮人の美術史に関して講演

《朝鮮新報》2021.12.03

講演「在日朝鮮人の美術史―研究内容とその軌跡、そして展望」(主催=朝大教育学部美術科)が24日、朝鮮大学校で行われ、約40人が参加した。「在日朝鮮人美術家の芸術と創造、活動と人生を振り返る」という趣旨に則って、ギャラリーQ代表・上田雄三氏、在日朝鮮人美術史研究者で一般社団法人在日コリアン美術作品保存協会(通称、ZAHPA)代表理事の白凛氏がそれぞれ講義を行った。

上田雄三氏

はじめに講義を行った上田雄三氏は、自身の学生時代からアシスタントなどを務めた在日朝鮮人美術家の郭仁植氏(1919~88)との出会いやかれが手掛けた作品について発言した。特に、1960年から65年にかけて、郭氏が真鍮の板状のものを切り裂いたり、つなぎ合わせたりした作品を数点制作していたこと、中でも61年から64年にかけて制作されたパネルの上に石膏を塗りそこにガラスを貼り付けて割った作品や、パネルの上に黄色い絵の具を塗り、その絵の具の上にガラスを貼って二か所に鉄球を落として割った作品が、後に「もの派」※で知られるガラスの上に石を置いて割った作品(1969年)へ与えた影響について語った。

上田氏はまた、郭氏が「割れたら二度と戻ることのない」ガラスを何度も割り、つなげて作品を制作していた時期が、同氏が統一関連行事の運営委員を務めるなど「祖国の平和統一を願って運動をしていた時期と重なる」と指摘。「つまり朝鮮半島の分断が郭仁植のガラスを割る行為、その衝撃や衝動が郭仁植の作品に影響を与えていたことは事実だと思う。となると郭仁植から影響を受けたと思う『もの派』のガラスの上に石を置いて割った作品は、分断によって影響を受けた作品ということになる」と話した。さらに「世界の美術史となった『もの派』の歴史は分断によって郭仁植が割ったガラスの影響を受けた作品であることは否定できない」と結論付けた。

在日美術家の生きた証に光を

一方、白凛氏は「在日朝鮮人美術史-1950年代を中心に」と題して報告。自身の著書「在日朝鮮人美術史1945-1962 美術家たちの表現活動の記録」(明石書店、2021年)をもとに、先行研究の整理や集大成であった画集「在日朝鮮美術家画集」(62年1月発行)の分析、また在日朝鮮人美術史をひもとく「語り」として行った、関東および関西に在住する美術家たちへの数十回に及ぶ聞き取り調査の内容を報告した。

白氏は、調査や分析によって明らかになった重要なポイントは「美術家になることを目指していた朝鮮人たちが、異国で孤軍奮闘していたのではなく、美術と民族という共通項で紐帯を求め、集っていたということ」だと指摘。また、同年代の在日朝鮮美術家たちの活動に「植民地支配下の経験、済州4.3事件、朝鮮学校の教育、朝鮮戦争、朝鮮半島の分断、密航、闇市、4.24教育闘争や、共和国への帰国などがかかわっていること」が確認できたことから、同研究が「美術史でありながら運動史であり、社会的少数者の問題をも含んでいるということも明らかになった」と話した。

白氏は、「在日朝鮮人の美術作品のほとんどが『こんなに大変な時に何が美術だ』という環境の中で生まれたもの。美術作品が美術家の生きている、生きた証であることを踏まえると、美術家の存在価値さえ否定された時期もあった。そのような時期に生み出された在日朝鮮人の美術作品の分析は、闇に埋もれた朝鮮人の生きた証に光をあてることを意味する」と強調。そして「在日朝鮮人の美術史研究がこれほどまでに遅れているのは、存在の重さ/軽さが、マジョリティの側から測られてきたからであり、結果として忘却のプロセスに投げ込まれてきた」からであるとしながら「歴史は選ばれし者たちだけの歩みではない。美術家の生きた証に光を当て、忘却の流れに抵抗し、伝承と記述を要する内容を、ていねいに拾い出す作業は、美術史研究の範囲に収まらない課題である」と述べた。

(李鳳仁)

※1960年代末から70年代初頭にかけて現われた日本美術史の重要動向。主に木や石などの自然素材、紙や鉄材などニュートラルな素材をほぼ未加工のまま提示することで主体と客体の分け隔てから自由に「もの」との関係を探ろうと試みた一連の作家を指す。

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