〈民族教育と朝鮮舞踊 5〉学生時代の舞踊部活動

《朝鮮新報》2021.05.29

朝鮮舞踊と私(3)

神奈川朝鮮中高級学校 新校舎竣工式での公演(前列中央が筆者、1968.9)

私が横浜初級に通っていた頃、教員の多くは朝高の師範科や日本の大学を卒業した方々であった。日本政府の民族教育に対する弾圧により、「横浜市立青木小学校分校」として日本人教員も何人かいた時代である。新任の女性教員には必ずと言っていいほど、音楽や舞踊の指導が割り当てられていたという。在学当時は、舞踊を専門的に教える先生がいなかったので、クラシックバレエを習っていた同じ町(トンネ)の同級生は、初級部卒業後、フィギアスケーターを夢見て帰国した。

初級部では舞踊と縁がなかったが、中学生になってはじめて接したのが、崔承喜著『朝鮮児童舞踊基本』(1963年)であった。中学1~2年生の頃は、朝鮮大学校の1年制芸術科を卒業し、舞踊教員として配属された裵先生に舞踊を教わった。

朝鮮大学校は1956年に2年制から始まったが、63年には6カ月制の芸術学院を開講、64年には1年制の師範科と芸術科、65年からは師範教育学部を2年制に改編し、芸術科の中に音楽と舞踊の専攻を設けた。裵先生は東京朝高3年の途中から朝大の1年制芸術科に入学、高校の卒業式も朝大で学びながら参加したという。当時の朝大では、1世舞踊家の金長安氏と2世舞踊家の任善喜先生が教えていたので、裵先生は朝鮮民族舞踊基本動作やバレエ式ステップのようなものも習ったらしい。裵先生は舞踊基本動作を教え、カヤグムを持って踊る作品も創作してくれたので、同胞や日本の学校との交流のときにはよく踊った。

中3から高1にかけては、舞踊指導をしてくれる先生がいなかったので先輩たちに学んだ。高校生になってからは、『朝鮮民族舞踊基本』(崔承喜著、1958年)を練習した。高1の時、舞踊部主将が創作した群舞が、芸術競演大会で1位になったこともあった。当時、東京中高は金英淑先生、大阪朝高は姜輝仙先生など有名な先生方がいらっしゃったが、神奈川朝高は合宿しながら学生たちだけで作品を創り、練習したことを思い出す。高2~3にかけては、朝大芸術科(2年制)で舞踊を専攻された趙先生に指導を受けた。

朝大に進学した頃には任善喜先生がいらっしゃったが、マスゲームや叙事詩の振り付けなどに忙しかったので、主に先輩が後輩を指導していた。任先生は私が2年生になる年に帰国された。

66年からの大公演が続いていたためか、朝大舞踊部には男子部員が6~7名在籍した。朝鮮のパジ(ズボン)を履いて一緒に練習もした。1年生の時の舞踊部主将は、なんと政治経済学部4年生の男子の先輩であった。彼は72年叙事詩で「南山の青い松」の主人公役を務めた。端正な顔立ちで、小柄ではあったがスタイルもよく、踊りも上手だった。叙事詩の中でも見せ場である「苦難の行軍」の隊長役も、文学部4年生であったラグビー部の先輩が扮していた。正式な舞踊部男子部員と準レギュラーのような先輩たちもいた。

叙事詩の「抗日パルチザン」役や祖国解放戦争時代の作品、また「漁夫の踊り」、「鋼鉄は流れる」、「農楽」等、中央芸術団には男性舞踊手が少なかったので、朝大男子の出番が多かった。男子舞踊部員は私たちの学年まではいたが、大公演を行わなくなり、3年生になってからはいなくなった。

2年生からは神戸朝高からいらっしゃった金成愛先生(朝大芸術科3期)に舞踊の指導を受けた。先輩に舞踊経験者がいなかったため、私は3年生から2年間主将を務めた。

72年8月、横浜初級音楽舞踊部と東京朝高サッカー部が祖国を訪問し、主席の接見を2度も受けた。その感激も冷めやらない73年夏、「朝鮮大学校音楽体育ソジョ訪問団」が祖国に招かれ、主席の接見を受けるという劇的な出来事があった。その時の感激を金先生が舞踊化した「祖国の懐に抱かれて」を、祖国と主席の温かい配慮に涙しながら何度も踊った。舞踊の途中にナレーションが入るのだが、舞台上でも、講堂のあちらこちらからもすすり泣く声が聞こえるほどであった。この作品は総聯の中央大会の2部でも披露された。

舞踊部ではいつも基本動作の練習を自発的に行った。来日したマンスデ芸術団は公演の合間を縫って、総聯文化部が申し入れた「朝鮮舞踊基本動作」(準備運動〈モムプリ〉から技巧動作まで)を映画で撮ってくれた。主将の私は冬休みの間中、プレハブの舞踊室に映画部から借りた映写機を設置して、後輩と映画フィルムを何十回も見て覚えて部員たちに教えた。フィルムが空回りして使えなくなるほど見て練習したためか、今もその動作を身体が覚えている。

私がウリハッキョで16年間学んだ時代は、在日の舞踊活動やハッキョでの舞踊が祖国の素晴らしい芸術に学び、日本での大々的な公演などで同胞や学生たちに広く普及し、日本の社会にも大きな影響をもたらし称賛を受けた時代であった。思い起こせば、在日朝鮮舞踊の普及と発展における激動と転換の時代の流れを、私はウリハッキョで舞踊を学びながら身をもって経験することができた。とても幸運なことであった。

しかし、まさか卒業後、舞踊教員として朝大に残ることになろうとは夢にも思ってみなかった。

朴貞順(朝鮮大学校舞踊教育研究室室長)

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