在日本朝鮮文学芸術家同盟

〈民族教育と朝鮮舞踊 3〉朝鮮舞踊との出会い、大音楽舞踊叙事詩

《朝鮮新報》2021.04.03

目次

朝鮮舞踊と私(1)

朝大創立10周年公演を見に(右から3番目が筆者、神奈川中高舞踊部時代)

私は1959年に母校、横浜初級に入学した。朝鮮幼稚園が無かった時で、ハルモニ(1世)は入学式の日に私を負ぶってハッキョに行き、校長先生に入学させてくれるよう頼んだという。5歳3カ月、まる1年早い上、早生まれでの入学であった。4年生からは「コマ(ちびっこ)歌舞団」の司会や少年団祝賀団など、ウリマル口演によく出演し、盛んであった合唱部に属して芸術競演大会には独唱と合唱に出場した。そして、神奈川中高の中級部の時、親友に誘われて初めて舞踊部に入り、朝鮮舞踊を習い始めた。

中2の時、朝鮮大学校創立10周年記念公演を舞踊部全員で観覧したが、朝大生が造ったという講堂がとても大きく見えた。その公演が、日本での叙事詩上演の布石となった。朝大卒業後、映画部の部室で偶然にもその時の記録写真を見つけ、今でも大切に持っている。

1960年代後半~70年代前半は、総聯での大きな文化・体育事業が最も盛んに行われた時期であった。65年、私が中1の時にはマスゲーム(8千人出演)に参加した。

66年に日本で初めて行われた大音楽舞踊叙事詩には中学生で参加できなかったが、8千席を上回る座席が設けられた東京体育館での公演を観ることができた。12月13~14日にかけて5回上演された「祖国の陽光のもとに」(全9景26場)は、関東地方の学生と朝大生、専門芸術家の3千人以上(合唱団1千余人、管弦楽団200余人、舞踊2千余人)が出演した総聯の文化活動成果の集大成で、4万9500余人(同胞3万6400余人、日本人1万3千余人、14カ国の日本駐在大使等100余人)が観覧した。また、3カ月も経っていない67年3月11~15日の5日間、大阪市見本市恒久展示場で10回上演された叙事詩「祖国と領袖に捧げる歌」にも3千余人が出演し、8万5千余人(同胞6万9500余人、日本の各界人士1万5500余人)が観覧した。同胞ばかりか多くの日本人や外交官たちにも深い感銘を与えた。

私は68年(高1)には、凱旋場面と紡績工の踊りの2作品に出演できた。7景にプロローグ、エピローグで構成された叙事詩にも3千余人が出演し、6月1~6日に8回の昼夜公演を行って、6万6800余人(17カ国の大使、1万8500余人の日本人を含む)が観覧した。

66~68年の3年間で、なんと20万人以上が叙事詩公演を観覧した。

大音楽舞踊叙事詩「偉大な領袖に栄光を捧げます」の凱旋場面(前列右から2番目が筆者、68年6月1~6日)

66年1月、金正日総書記は、日本で数千人規模の大音楽舞踊叙事詩を行えば、民族教育の素晴らしさを誇示し同胞たちの団結と総聯の権威も高められるとの談話を発表していた。

事実、舞踊だけでも2千余人が出演する大規模な文化事業は、民族教育を受けている学生たちに朝鮮舞踊を広く普及し、音楽的素養を積み、同胞たちの矜持を高める一大芸術イベントとなった。祖国で創作された舞踊作品を主に在日舞踊家たちが創作した作品もあった。

約3カ月間、アスファルトの前庭や校舎の屋上、運動場で練習したのを今でも覚えている。バレーシューズがすぐボロボロになり、膝は青痣だらけで、顔は真っ黒に日焼けしていた。

叙事詩の練習は、朝鮮中央芸術団の舞踊手たちが各朝高に派遣され行われたのだが、神奈川には3人の舞踊手が来て舞踊基本動作や作品の動作を教えてくれた。1作品に50~100人ほど出るので、舞踊部だけでなく高級部の女子学生は全員、作品を踊るために朝鮮舞踊を基礎から習った。いま思えば、この過程で祖国から送られてきた「朝鮮民族舞踊基本」が多くの学生たちに一気に伝授され、祖国で創作上演された舞踊作品が広く普及されることとなった。もちろん、帰国船内の伝授をはじめ映画フィルム、舞踊衣装や小道具、髪飾りや装飾品に至るまですべて祖国から送られて来たものだった。東京・千駄ヶ谷の体育館をぎっしり埋め尽くす同胞たちや日本人の前での公演は圧巻だったが、練習過程も脳裏に焼きついている。朝大の中庭に本舞台と同じ仮設舞台を作って通し稽古をし、合唱団は第一研究棟の各階廊下に立って練習した。2時間以上立ったままピクリとも動かない朝大生の固定合唱団には脱帽であった。

今では想像がつかないと思うが、当時の舞踊練習着は長いチマ(コリチマ)とチョゴリにソッパヂ(チマの中に着る)で、学校別に配色が違った。神奈川朝高は紺色のチマ、ソッパヂでピンクのチョゴリに紺の襟や袖、東京朝高は紺のチマにピンクのチョゴリ、襟と袖はローズピンクなど、一目でどこの朝高かがわかった。芸術団と朝大生はそれぞれ自由だった。本番は舞踊衣装にポソン(朝鮮の靴下)とコムシン(朝鮮の靴)だったので、作品が終わるたびに舞台には脱げてしまったコムシンがいくつも残っていた。コムシンが脱げないようにお弁当に使う輪ゴムで工夫したりもした。出演者のほとんどが素人の学生だったので、体育館に造られた広い舞台には、作品が終わるたびに小道具やつけ毛までいろいろな物が落ちていた。

朝鮮大学校に入学すると同時に、5月に行われる朝大創立15周年記念音楽舞踊構成詩に出演することになった。そして2年生の1972年、金日成主席生誕60周年を祝った大音楽舞踊叙事詩(4月15~17日に4回、東京朝鮮文化会館、観客2万2千余人)とマスゲーム(5月30~31日に4回、駒沢競技場、観客11万8千余人)に出演した。午前中は授業を受け午後は練習の日々。1~2年生の時はほとんど勉強した記憶が無かったが、1年早い入学のおかげで2回にわたりマスゲームと叙事詩に参加できる貴重な経験を積むことができた。

(朴貞順・朝大舞踊教育研究室室長)

目次